しまりす写真館の現像室から

カラーネガフィルムでユルめに写真を撮っています

GRD3とE-P5:新宿物語

「東京は、物語。東京は、写真なのだ。」

荒木経惟東京物語平凡社 1989年4月29日発行 より)

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Ricoh GRD3: Shinjuku, Tokyo

今日は、2月の雨が降っています。

個人的には、一年のうちで、この2月の下旬ほど素敵な季節はないと思っています。学校は3学期もあらかた終わって、授業は「消化試合」の様相を呈するようになり、嫌なクラスメートたちとの面倒臭い人間関係もリセットできるという予感に包まれるのです。そして、リセットされた後は、何もかもがうまくいくんじゃないか、という全く根拠のない「希望」に満たされる季節。それが僕にとっての2月下旬である。

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そして、2月の遅い午後の日差しは、特に東京では、抒情的に感じられます。むかし、2月の下旬に中野にあるビルの事務所で、3日くらい徹夜でとにかく資料を印刷するという、アルバイトのようなことをやったことがあるのですが、他のことは全て記憶から抜け落ちてしまったのだけど、ビルの窓から見た2月の夕暮れの日差しの中にぼんやり、もやっと見えた、東京の街並みの様子だけ、今でも記憶に残っています。鮮明な記憶ではないのだけど、そのとき、その光景を見た、ということは忘れられないのです。あれは確か、1987年のことだったと思う。

1987年の中野の早春の夕暮れの街並みは、そのとき、とても抒情的だったのだ。

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Olympus E-P5 + Leica Summilux 15mmF1.7: Shinjuku, Tokyo

ちくま学芸文庫の「記号論講義」(石田英敬)と言う本を少し前に買ったままになっていたのを、ようやく手に取って開いてみました。そうしたところ、「都市についてのレッスン」と言う章で、これまた少し前に近所の古本屋で見つけて買った荒木経惟の「東京物語」と言う写真集に沿って、東京という都市を記号論の観点から批評していて、面白く読みました。この本に書いてあるように、東京は3度にわたって全面的な破壊行為を経ているのであって、それは関東大震災東京大空襲、そして80年代の投機的都市開発なのだけど、アラーキーの「東京物語」は開発によって急速にその姿を変えていったあの頃、バブル期・そして昭和の終わりの「東京」の姿を捕らえている、と思います。

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Olympus E-P5 + Leica DG Summilux 15mmF1.7: Shinjuku, Tokyo

お久しぶりに広角レンズを使ったのですが、やはりなんでも面白そうに写りますね。50ミリよりもずっと楽にシャッターをぱちぱち押せます。東京は、一つのカットの中にいろいろなものがカオス的に入り込んでくる、という、この画角が一番相性が良いのではないか、という気がします。

東京物語」は1989年(昭和64年にして、平成元年)なのだけど、翌年、1990年、平成2年の秋に発行された写真集が「冬へ:Tokyo: a City Heading for Death」。近所の古本屋では、「東京物語」とセット?組み?で並べて売られていたのだけど、これも名作だと思います。表紙にもなっているけど、1枚目の写真がいいですよね〜。

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元気そうな男の子と、優しい笑顔の女の子。そして女の子は小さな子猫を抱きかかえてるんです。

こんな写真、令和4年の今日において、ネットで公開したら、大変な騒ぎになるんでしょうね。「親の承諾はとったんですか!?」って。そもそも、こんな笑顔の子供たちって、今でもいるのかな。

最近本当に酸素が薄くなってきて、みんなで黙って水面と天井の間にわずかに残された空間の酸素を貪っていられるのはあとどれくらいなのか。この瞬間を写しとってくれたアラーキーに感謝。って言っても、彼のことだから、実はヤラセだった、っていうこともあるのかもしれないけど。

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そして写真集の終わりの方の、銀座の風景。街を行き交う人の姿やタクシーが、遅いシャッタースピードのせいで、ブレてしまって、はっきりと見ることができない。そして、アラーキーの写真では珍しいと思うのだけど、街の風景が逆光で捉えられている・・・あたかも、西方浄土に向かって、目を凝らすように。

子猫を抱えた少女とその少女をみまもるかのように笑っている男の子の写真にはじまるこの写真集を1ページづつめくって、写真を追っていって、この一連のブレた銀座の街の風景にたどり着くとき、何かを感じますね。それが「死」に向かって変貌しつつある都市、ということだったのでしょうか。

もしも1990年の時点でこの街が死にかけていたのだとしたら、それから30年経った今のこの街は・・・松本零士の「銀河鉄道999」に出てきたような、永遠の命を手に入れた機械人間の街?

それにしても、アラーキーの「東京物語」の発行日に小さな秘密が隠されていたとは・・・実に、油断ならない人なのである。

 

Fujifilm X-T4: How far is the Moon?

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Fujifilm X-T4 + XF35mmF1.4 + Adobe LR

子供に「おひさま」の絵を描かせると、だいたい赤いクレヨンを選ぶのですが、よく考えてみたら、太陽って「赤く」ないですよね。緑色の信号を「青信号」って呼んでみたり、僕ら日本人の色彩感覚、というか、色彩と言語の結び付け方って、ちょっとクセがあるように思います。緑色の信号を青信号というのは、単なる習慣なのかもしれないけど、「みんな、おひさまの絵を描いて〜」と言ったときにそれが、多くの子供たちが赤色のクレヨンに手を伸ばす、という物理的、肉体的な結果に接続するというのは、単なる「習慣」では済まされないような気がするのだ。

実際、外国のこどもたちにおひさまの絵を描かせると、赤色で描くのは、あまり多くないようである。

えーと、何が言いたいかっていうと、まあ、当たり前だと思ってることも実は立ち止まってよく考えてみると、あまり深い意味はない、というか、結局周りが赤いクレヨンでお日様描いてるから、俺も赤で描くかなっていうことを考え出すのは、実は、世間に揉まれて「すれっからし」になってから、というわけではなくて、割とかなり早い幼い段階から、それは始まっていたのではないかと、こう考えるわけです。

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Fujifilm X-T4 + XF35mmF1.4 + Adobe LR

部屋の中を暗くして、小さな人形を懐中電灯で照らすと、壁にその人形の影が大きく映る、ということがありますよね。その効果を、「ファンタスマゴマリー」というのだそうです

「ファンタスマゴリーというのは、何の変哲もないただのオブジェに光を照射することによって、スクリーン上に怪物のように巨大な影を映し出す「幻灯装置」のことである。」仲正 昌樹. 集中講義!日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか (NHKブックス) (Japanese Edition) (Kindle の位置No.1590-1592). Kindle . 

消費社会における「商品」が放つ理性では説明しきれない役割についてヴァルター・ベンヤミンという思想家が「パサージュ論」という本の中で検討しているそうです。本屋さんでみてみたら、分厚い文庫が5冊くらい?あり、これを読み切るのは当分先の話になりそうですが、でも、「ファンタスマゴリー」効果の威力については、いつもライカストアや、中古カメラ屋さんで、直接的に「ファンタスマゴリー」光線を浴びまくっているので、たぶん、大体理解できているのではないか、と思う次第である。

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Fujifilm X-T4 + XF35mmF1.4 + Adobe LR

ところで、ここしばらく、ライカMばかりを使っていたので、久しぶりにX-T4にXF35mmF1.4の単焦点レンズ、という組み合わせで、先週末は街歩きをしてみたのでした。

感想としては、やはり、軽いって、いいですね。。それにオートフォーカスも楽。プログラムオートなら、絞りすら考える必要ないし。。もう脳みそが溶けてなくなってしまいそうです。EVFで露出も含め、撮影結果をあらかじめ確認しながら(結果を予見できるって、考えてみるとすごいですよね)撮影できるので、背面液晶で確認するチンピングも必要なく、効率よく撮影できるっていったらないです。

なんだかんだで、10キロぐらい、歩いてしまった。ライカだと、7キロぐらいで相当へばってしまうのだけど、最新鋭のミラーレスカメラだと、体力を消耗しないっていうことなのかな。

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1週間ほど時間をおいて、画像を見てみると、やっぱり素直すぎるというかまじめすぎるというか、そのままだと物足りないような、薄い印象があるのだけど、こうしてLightroomでいじってしまうと、もう、どのカメラで撮っても同じ、っていう気がしてしまいますね。

今、半導体不足のせいか、デジタルカメラの中古品買取価格って、結構上がってるんですかね。マップカメラから、「お持ちのカメラの買取価格が上がりました!」っていうメッセージがしょっちゅう届くので、だんだん「売るなら今のうち?」っていう気がしてきていたのですが、まあ、この程度写ってくれるんだったら、もうこのまま壊れるまで、このカメラとライカMの2台体制でいいかな、っていうことが、確認できました。

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XF35mm F1.4は「神レンズ」と言われているそうですが、僕自身はこのレンズに「神」を見たことはないのですが、X-Pro1のレンズキットでついてきたレンズは、絞りリングがふわふわで、オートにしていると、気がつくとF16にズレてた、ということがよくあり、フードもすぐに外れてポトッと落ちるという、なんとも使いにくいレンズでしたが、2本目はその辺り多少改善されているように思います。

でも、最近33mmF1.4という後継モデルが発売されてるのですよね。まあ、いらないっちゃ、いらないんだけど、X-T4には、このちょっと鏡胴が長いレンズの方が似合うかな〜とか思ったりして、物欲を刺激されまくっております。最近ようやく品薄、在庫ないという状況もかいぜ慣れてきたようです。

ま、いずれにしてももう少し、X-T4使い込んであげないといけませんね。操作感は本当に上品で、とても良いカメラなので。。

でも、それより何より、最近のフイルムの値段高騰って、半端なくありませんん?トライエクスが1,500円越えって・・

 

70年代からの《message in a bottle》

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Leica M Type 240 + Summilux 50mm + Adobe LR

ここのところ、「東京」「パリ」そして「Nへの手紙」と、立て続けに巨匠森山大道の最近の写真集を衝動買いしてしまった。いつものごとく、なんでもすぐに影響されてしまう性格の私は、ついつい、自分のRAWデータもLightroomでモノクロ化し、周辺減光最大、粒子も最大、コントラストをアゲアゲにしてしまうのでした。。

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Leica M Type240 + Summilux 50mm + Adobe LR

何かの拍子に、中平卓馬の「なぜ、植物図鑑か」(ちくま学芸文庫)を再読し始めたのですが、いったいなんの拍子だったかな〜。思い出せません。

いずれにしても、これほど緻密な思考の経過を文字にした読み物って、いやもちろんあるでしょうけどしかし何か、尖った刃物で自分の脳幹を削りとりながら書かれているような、そんな読書感触がします。今日風呂でぬるま湯に浸かりながら読んだ部分では、写真(テレビや映画などの映像を含む。)は記録であって記録ではない、ということが書かれていました。

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Leica M Type 240 + Summilux 50mm + Adobe LR

「・・・いやそれよりも前にわれわれは映像によって切りとられた現実を、当の映像はあくまでも現実の似姿であるにすぎないことを忘れて、現実そのものとあまりにも容易に短絡させることによって、現実ではなく現実の似姿を現実そのものと信じ込んでしまっているのではないか。そのことがまず最初に問われなければならないだろう。」(ちくま学芸文庫「なぜ、植物図鑑か」所収「記録という幻影」より)

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Leica M Type 240 + Summilux 50mm + Adobe LR

そして中平氏がその中でくり返し指摘し、執拗に糾弾しようとしているのは、写真(映像)が必ずしも現実そのものではないということを容易に失念してしまう我々のおっちょこちょいさ加減だけなのではなく、そのおっちょこちょいさ加減に乗じて、どの映像をいつどのような形でどのくらいの量を大衆に向けて流通させるかというコントロール権を独占しているマスメディアに結束した「権力」の存在なのである!

「いずれにせよ、ここには支配者側の普遍性を装った巧みな大衆、人民の操作があることだけは間違いはない。」(ちくま学芸文庫「なぜ、植物図鑑か」所収「記録という幻影」より)

うーん、正真正銘の70年代ですね〜。

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Leica M Type240 + Summilux 50mm

少し前に読んだ村上春樹の「羊をめぐる冒険」では、鼠が撮った背中に星印のある羊が映り込んだ写真が物語を展開させる主要なモチーフになっているわけですが、その中で「先生」の秘書が、「僕」が鼠から託された写真を挿絵に使った生命保険会社のPR誌を発見して、その流通を根こそぎ止めるという場面がある。つまり、「支配者側」が、映像の流通を監督、管理する世界が背景として描かれていると言えるのではないか。

村上春樹も、もしかすると、中平卓馬を読んでいたのかな?

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Leica M Type240 + Summilux 50mm

森山大道中平卓馬とくれば、中平氏が主催した同人誌《PROVOKE》で展開された「アレ・ブレ・ボケ」の作品がよく知られているのですが、《PROVOKE》少し前に復刻版が発売されていたのですよね。買っておけばよかったなー。

中平卓馬は1970年から始まった国鉄(当時)の「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンを批判したことでも知られていますが、その「ディスカバー・ジャパン」のキャンペーンポスターの中に被写体を意図的にブラしたものがあったようです。このウェブページの先頭で紹介されているポスターのことかな、と思うのですが。。

artscape.jp

おそらくはこれに関連して以下のように書かれてる。

「ある友人が冗談まじりに、《PROVOKE》もたいしたもんだね、国鉄までブレてるよ、と言ったことがある。冗談ではない、それはむしろ逆の証左なのだ。彼らはあらゆるものを骨抜きにし、しかもその形だけは残すのだ。いやそうではない、それでは事の反面をしか捉えたことにならないだろう。彼らが認めたその瞬間からわれわれ自身が腐蝕しはじめるのだ。」(ちくま学芸文庫「なぜ、植物図鑑か」所収「記録という幻影」より)

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Leica M Type240 + Summilux 50mm

なるほど、例えば、1977年に東独のホーネッカー書記長がデヴィッド・ボウイの「HEROES」を1978年の年次党大会で大音量で流しているところを想像してみたり、あるいは、1972年の年末のホワイトハウスのパーティーニクソンジョン・レノンの「Imagine」を歌ってるところを想像してみたりするとわかるように、ありえない光景であっただろうとわかるけど、では、今日アメリカ大統領の選挙イベントの「締め」にローリング・ストーンズの「無常の世界」が流れるということは、ついに世界のミック・ジャガー化が完遂したということでは、おそらくないのであって・・・中平氏に言わせれば、おそらく、今日においては、ボウイも、ミックもレノンも、みんなみずから腐蝕してしまった、ということになるのか。もしも、僕らが今日耳にしているのが「骨抜きにされて形だけが残った」歌なのだとしたしたら・・・そうではないことをimagineしたい。

冷たいコンクリートの壁で引き裂かれた人々がふたたび一緒になれる日を待つ歌が、あるいは、何万トンという爆弾が降り注ぐ中で戦争のない平和な世界を夢想する歌が、国家行事のテーマソングとして採用されることによって、果たしてその作品が「希求」していたはずの世界がついに具現化し、現実化したものと理解できるのかというと、果たして一体どうなのかと、思ってしまうことがあるわけですが、いずれにしても「支配者側」に認められた瞬間におのれ自身の腐蝕が始まる、といって突き上げられた50年前の中平氏の拳は、今も降ろされることなく、依然として中空にあるのかもしれません。

その拳を見あげている者は、もうだれもいなさそうですが。。

中平卓馬の写真集は、いくつか入手しているのですが、最近よく見返すのはこちら。

 

Leica M: A Man of Weak Personality

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Leica M + Summilux 50mm + Jpeg

オーストラリア人との会議で「お前はどう思う?」と、とつぜん話をふられたのですが、みんなが何を話しあっていたのか英語がわからず全く話についていけてなかったので、いちかばちかで、「アイシンクソー」って答えてみました。そしたら、「ソーって実際どう思ってんだよ?」っというような、何か皮肉を言われたのですが、その皮肉も理解できなかったのだ(笑)。

やはり、アメリカ人との電話会議で「ナイコーと一緒に仕事してるんだろ?ナイコーのこと知ってるだろ?」って言われて、実際、誰のことかわからなかったのですが、「イエスエス」って答えておきました。よく考えたら、「ニコル」っていう人のことだったのね。ニコルのことは知っていたので、結果オーライでした。

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Leica M + Summilux 50mm + Jpeg

ニューヨークからきたアメリカ人と映画の話をしてて、「ジュウディ・フォースタが・・・」というので、発音悪いなって思って、「それ、ジョディー・フォスターのことだろ」って教えてやろうかと思いました。ダイアンっていう名前も「ディーアン」って発音するのね。これも誰のことか理解できず、話が通じないったらなかった。僕の耳がおかしいのかもしれないけど。。

もう、30年も前に話になるのだけど、南カリフォルニアで仕事したことがあって、アメリカ生まれでアメリカ育ちの日系人のベッツィーさんっていう秘書さんが会社の帳簿をつけてくれていたのですが、項目に「チェキ」「チェキ」って書いてあって、「ベッツィーさん、これ『チェキ』って何?」って聞いたら、「Oh、これです」って小切手帳を引っ張り出してニコッと微笑むので、「なんだチェックのこと?じゃ、『チェック』って書いてよ〜」ってお願いしたことがあったのだけど、よく考えたら、間違ってるのはこっちの方だったのでしょうね。

ベッツィーさんは、車庫(garage)のことも「グゥラージュ」って言ってたな。

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Leica M + Summilux 50mm + Jpeg

つまり、僕がこうだって思ってることって、意外とけっこう間違ってる、いや、実際ほとんど間違ってるんじゃないか、と思う次第である。

ニックというイギリス人と話をしていて、交渉の相手方のことを「he is such a man of weak personality」って言っていたけど、「彼は、自分の意見というものがなくて、僕の言いなりになるような人だから・・・」というような趣旨の意味だったのだと思うけど、「ホントだよねー」って相槌を打っておきましたが、あれ、実は私のことを言ってたのかな。

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Leica M + Summilux 50mm + Jpeg

さて、一昨年の暮に中古で購入したLeica M、大枚叩いて買ったのに、ろくすっぽ使ってなかったので、「2年の保証期間が切れる前に使い倒すんだ!」と実にケチ臭い理由で集中的にこのカメラを使い出したら、フィルムカメラを使うのがチョー面倒くさくなってしまった。今日貼り付ける画像も全部昨日撮ったばかりのもの。この即時性というか、現像にお金と時間がかかりませんよ性というか、要は便利さ?慣れるともうこれでいいやっていう気になってしまいますね。

そして、フルサイズの画像に慣れてしまうと、APS-Cだと「チガウ」感じがしてしまって、ライカMの前に導入したフジのXシリーズのカメラもあまり持ち出さなくなってしまいました。

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Leica M + Summilux 50mm + Jpeg

しかし、その一方でマイクロフォーサーズのカメラやレンズを買ったりしていて、結局自分でも一体何がしたいのか、全く不明、行き当たりばったりのその日暮らしの生活を続けています。この、マイクロフォーサーズ機のしつこい?魅力って、なんなんでしょうね〜。ちっちゃくて可愛いので、ついつい、欲しくなっちゃうのですよね〜。

昨日はパナソニック・ライカの15ミリを中古で買ってしまった。愛用のオリンパスの白いE-P5につけているのですが、このE-P5、写真は綺麗に撮れるんだけど、ポップアップ式のフラッシュを止めているボタンがものすごくsensitiveで、ちょっと触れるだけで、「ピョコ」ってフラッシュが飛び出すのが、最大の欠点ですね。とにかくいつ、何時フラッシュがピョコって飛び出すかわからないので、手にびっくり箱を持っているというか、手の中にウクライナ危機があるというか、不穏な一触即発ともいうべき感覚があって、カメラを持っているとなんとなく常に落ち着かないのです。なので、この落ち着かない気持ちを整理するためにパナソニックのGXシリーズを一台入手しようかと思っているのですが、そういうことでいいのか悪いのか、なんだか混迷を深めているような気がする今日このごろです。

ライカM11と、イワンが見た「悪魔」

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Leica M + Summilux 50mm ASPH

「だから、もっぱら仕事上の義務とぼくの社会的な立場から、やむをえず、自分のなかのよい部分を押しつぶし、不潔な仕事をつづけるはめになったんです。僕の名誉はだれかがそっくりかっさらい、ぼくには不潔な分け前だけが残されているってわけなんですよ」(光文社「カラマーゾフの兄弟 4」第11篇「兄イワン」より)

カラーネガフィルムでゆるく撮る、というのが本ブログのテーマだったのですが、私のこれまでの人生の傾向をなぞるかのように、なし崩しになってきております。それに、写真のことよりも自分が読んでいる本の話のほうが多くなってきてしまいました。それはそれとして、上に引用したのは、カラマーゾフの3兄弟の次男、イワンの「幻覚」に現れた「悪魔」の発言なのですが、これって、なんだか、この小説が描かれてから100年後の世界にて、80年代の「高度資本主義」を超えた「超、超高度資本主義」に生きる私たちの、ひとりごと、なのか?!と、ハッとさせられて、引用してしまったと、まあこういう次第なのです。

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Leica M + Summilux 50mm ASPH

昨日、私の愛機ライカMを購入いたしましたライカストアに久しぶりにお邪魔しまして、話題のM11に触らしてもらったのでした。一番気になるシャッター音は・・・無音です・・電子シャッターの設定になっていたようです。メカニカルシャッターでも確認しましたが、「コト」という感じの上品なシャッター音。ライブビューでの撮影も特に違和感ないのかもしれません、でも相変わらずオートフォーカスではないので、もしライブビューでスナップするとしたら、絞り込んで目測でっていうことになるのかな。気になるお値段は120万円・・・これって、むかーしむかし、まだ向こうみずな「ワカモノ」だったころに「清水の高台」から飛び降りて買った、ドカティ750SSとほぼ同じ値段です。あのバイクについては、120万円の価値は直感的に理解できたのですが・・・そこまでの価値が、このいちだいのデジタルカメラに果たしてあるのか、ないのか、よくわかりません。。。結局、目を瞑ってでもとにかくアクセル開ければ時速200キロ出せるバイクと違って、カメラって結局使い手の使い方しだいでその価値が左右される道具ですものね。。ある意味、高価な毛筆とか万年筆とか・・・日本刀みたいなもの?

しかし結論としては、「欲しい!」と思ってしまいました。買うんだったら、Mの重さにやや閉口している私としてはアルミとマグ合金のブラッククロームにすることに決めました(買えないけど)。6000万画素っていうファイルサイズに引いてしまっていたのだけど、これって3600万画素、1800万画素って、三段階に選べるのですね。すごーい。ただ、買わないから余計なお世話だとは思うのですが、バッテリーをロックしているツメがちょっと頼りないというか、ガッチリと押さえてる感じがしなくて、使ってるうちにバカになっちゃうんじゃないかな、て思いました。

まあ、いずれにしても、買いたくても買えない値段に設定してあるので、おかげさまで、過ちを冒すことはなさそうです。多分。でも、発売前の情報でのドル表示の価格では、M10よりも安く設定されていたように思ったんだけど、円安だから仕方ないのかな。90万円を超えないくらいの値段に設定してもらうと、「手持ちの機材全部手放して、逝っちゃう?」っていう気になってたかもしれないけど。。

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Leica M + Summilux 50mm ASPH

いずれにしても、当分は愛機Leica Mとズミルクスの組み合わせで、こと足りているので、M11を購入することはないのだ。そう、たぶん。

「ほんとうの話、どんなふうにしてぼくが、かつては天使なんかでいられたのか、想像もつかないんです。(中略)今は、まともな人間という風評だけを大事にして、人に嫌われないように努めながら、成り行きまかせの暮らしをしているわけです。ぼくは心から人間を愛していますから。」(光文社「カラマーゾフの兄弟 4」第11篇「兄イワン」より)

気のせいかもしれないけど、イワンの幻想の中に現れる悪魔とイワンの会話って、「ダンス・ダンス・ダンス」の主人公と「羊男」との会話に、ちょっと似てるな。

 

 

 

スメルジャコフ曰く:「賢い人とはちょっと話すだけでもおもしろい」

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Leica M5 + Elmarit 28mm + Kodak Tri-X

「神さまがぼくの心に、兄さんにそう言うようにって、務めを課したんです。たとえ、この瞬間から、兄さんが永久にぼくを憎むことになろうとです・・・」(光文社「カラマーゾフの兄弟 4」第11篇 「兄イワン」より)

昨年来読み続けてきたこの本も、けつまつまで400ページのところまで迫ってきましたが、ロシアって昔はソ連って呼ばれてたんですよね。そして、昔はヨーロッパに行くのには、アンカレッジ経由で北極の上を飛んでいかないとならなかったんですよね。

さいきん1980年代のできごとを調べたり、確認するのがひつまぶしいやひまつぶしの趣味になっています。ソ連の領空上で民間の旅客機が撃墜されるという事件が起きたのも、1983年のできごとでした。私にとっての1980年代は、ジョン・レノン射殺事件に始まり、昭和天皇のご崩御に終わった、という認識であるが、世界的には、「ベルリンの壁の崩壊」が1980年代を締め括る大事件だったのだろう。

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Leica M5 + Elmarit 28mm + Kodak Tri-X

なぜ、今、1980年代かと言うと、ふとしたはずみでひさかたの光のどけきはるのひのひさかたぶりに村上春樹の初期3部作を読んで、その続きで、「羊をめぐる冒険」のその後の物語である「ダンス・ダンス・ダンス」をほんとうに久しぶり、多分最初に買って読んだ時以後、再読したのは初めて?かどうか思い出せないくらいに久しぶりに読んだわけです。しかし、中盤までは楽しく読んでいたのですが、最後まで読んで、この小説があまり好きにはなれなかったことを思い出しました。。個人的には一番好きなのは「1973年のピンボール」で、その後の「羊」からははんぶんファンタジーの世界に行っちゃって、若干ついていけない感じがあり、「ダンス・・・」ではまるまるファンタジアになってしまってるというのもあるのだけど、この話、最後まで読むと、ものすごい不安感のようなものに襲われてしまうのですよね。。

(以下、「ネタバレ」を含むので、これからこの本を読もうと思っている人は、ご注意ください。)

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Leica M5 + Elmarit 28mm + Kodak Tri-X

この物語は1983年3月に始まって、それから3ヶ月程度、たぶん夏がくる前ごろに終わる。全体において、「僕」が考えたり、想像したりしたことが、全てそのとおり、思いのままになるというある意味「チョー便利」なおはなしで、話が行き詰まりそうになると超能力者みたいな女の子が出てきて、解決してくれたり、もしくは解決へのいとぐちを教えてくれる。寂しくなって13歳の女の子にワインやカクテルのお供をさせても誰も文句をいわない。いくら酒を飲んでも車に乗るときまでにはアルコールは抜けている。そして死すべき者が死に、死んじゃ困る人は「消えて」はいるけど「死んで」はいないことになるという、どれくらい便利かというと、壁を通り抜けて、向こう側に行ったり、こっち側に戻ってきたり、自由にできるぐらい、便利、まさに自由自在、融通無碍、なのだ。

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Leica M5 + Elmarit 28mm + Kodak Tri-X

KINDLE電子書籍版にはないけど、僕が持っている紙の単行本にはみじかい「あとがき」があって「この小説は一九八七年十二月十七日に書き始められ、一九八八年の三月二十四日に書き上げられた。」とある。ある意味1980年代をふりかえりながら書かれた小説と言えるのではないか、という気がします。

この小説のあちらこちらで出てくるのが「高度資本主義」という言葉です。「羊をめぐる冒険」が1978年の7月に始まって、その年の秋(北海道の北のほうの山の上で雪が降り始めるころ)に終わるのですが、1978年といえば日経平均株価が五千円ぐらいで始まって六千円ほどで終わってる。この物語の舞台設定となっている1983年は八千円ほどで始まった株価が一万円まで上がってる。

この小説が書き終えられた1988年3月24日は日経平均終値25,781円だ。そして1989年の1年の間に九千円近く上がった日経平均株価は年末に38,915円と、四万円のてまえまで高騰した。

すごーい。今から考えるとまるで夢か幻のような世界。「高度資本主義」のもとで、日本はまさに「なんでも思いどおりになる、チョー便利」な世界だったのかもしれない。

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Leica M + Summilux 50mm

あと、この小説の主人公って、自由文筆業というか、いわゆる「フリーター」のような生活をしてるのですね。浅田彰の本がヒットして(「構造と力」が発刊されたのも1983年だ)、いちばんイケてるテツガク的ポジションが「スキゾキッズ」などといわれてたころ組織にしばられない「フリーター」的生き方ってけして皮肉とかでなくて、憧れの職業とされていたように思う。日経平均株価に象徴される大きな「波」の上に乗っかっていれば、まあ食うには困らないわな、という雰囲気があったような記憶があります。

1990年の10月1日に日経平均株価は二万円近くまで下げて、バブルは終焉を迎えることになるのですが、その前夜とも言える「チョーイケイケ」な世界を背景としているのがこの「僕」を主人公とする一連の物語の4作目(多分5作目は、もうないのでしょうね。あれば面白いと思うけど)と、いえるのではないかと思いました。

でも、なんでも思ったとおりになって、壁の向こうとこっち側を自由に行き来できるようになってしまうというのは、ある意味、とても不安な状態ともいえるのではないかと思ってしまうわけです、壁が壁でなくなってしまうということは。エレベータを降りたら真っ暗な別の世界だった、というこの小説の主人公たちのように、ふと気がついたらあっち側に逝ってっちゃっていることもありうるわけで。

あのバブルの「上潮」に乗っていたときの僕らにとっては、この物語の結末はポジティブに受け止めることができたのかもしれないけれど、あの神話のその後の顛末を知ってしまったあとで読んでみると、不安しか感じない、ということなのかな。

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Leica M + Summilux 50mm

ところで、この小説の最初の方で、登場人物の女の子が「ウォークマン」でロックを大音量で聴いている、というシーンがあるのですが、それに影響されてしまいました私は、久方ぶりにソニーの「Walkman」を買ってしまったのでした(ほんとうに影響されやすい性格なのです)。で、使ってみて、iPhoneがどれだけ使いやすいか、よく分かったというわけなのですが(というか、小さな液晶の上でGoogleやMoraを設定するのに手間取ってしまって、「昔は、買って箱から出して、電池入れてカセット入れたら聴けたのにな」と思いました)、もう一つ発見してしまったのが、「ハイレゾ」って確かに音が違う、少なくとも私のやや難聴気味になってきたポンコツ耳でも違うような気がする、ということです。もしかして、ハイレゾ音源って、普通の音源と違うと感じるように編集してんのかな、と勘ぐりたくなるくらいです。

ということで、今月はハイレゾ音源にすっかり散財してしまいました。。

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この2冊、当時買った初版なのですが、いまだに手元にあるのが不思議です。「ハードボイルドワンダーランド」や「ノルウェイの森」も本が発売されたその日くらいに買って読んだのですが、人に貸したきり返ってこなかったり、実家を処分した時にまるごと廃棄したりでもう残ってないのだけど、村上春樹の作品の中ではどちらかというと苦手だったこの本だけが、手元にあるということは、いつか忘れたけど実家の本棚から救出したのかな。しかし実家から救出したとすれば、これよりも好きだった「ハードボイルドワンダーランド」がもう手元にないのが不思議だ。ピンクの箱に入ってて、綺麗な本だったので、持ち出すとすればそっちだったはずなのだけど。

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Leica M + Summilux 50mm

いずれにしても、当時は、まさか早稲田大学村上春樹の図書館ができる、しかも超一流の建築家がデザインしたピッカピカのが、なんてことは、まったく予想もつかなかった。ジェイや鼠がこのことを知ったら、なんて言うだろう。ジェイならフライドポテト用のじゃがいもの皮むきの手を休めて「へえ」というかもしれない。鼠だったら、飲みすぎたビールを吐きだすために、慌てて洗面所にむかうのかもしれない。双子の女の子だったら、右側が「すてきね」と言い、左側が「すごい」と言うのかもしれない。羊男だったら・・・

まさに「この世界ではなんでも起こりうるんだよ。なんでも」ということなのでしょうか。

 

帰省、そして、ワールド・エンド

ヴァルター・ベンヤミンはカメラが発明される前までの〈芸術〉は意識が支配する〈芸術〉であったが、カメラは〈芸術〉に無意識の領域を持ちこんだとし、それを評価した。私もそう考える。」

(「決闘写真論」篠山紀信中平卓馬 発行日1977年9月20日第一刷 朝日新聞社

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デジタルカメラで撮った写真は数ヶ月で忘却の彼方なのに、フイルムで撮影した写真はそうではない、ということを前回書いたのだけど、正直言いますと、前回貼り付けた4枚目の写真は、撮影したことを全く忘却していたのでした。つまり、デジタルであれ、フィルムであれ、忘れるものは忘れる、ということなのである。

しかし、ライカM3で撮影した写真をアップしようと「M3」をキーワードにFlickrの写真を検索しているうちに、この写真に目が止まった。現像してもらって、写っている映像を確認した後、そのまま忘れてしまっていたのですが、4年以上の時間を隔てて、あらためて見返してみると、水が抜かれて干からびてしまった広場の噴水の縁に女性が向かい合うように腰を下ろしており、その女性に向かって、こちらに背を向けている少年との3人は、親子であろうか。そしてこの3人とは関係なく、左側にアフリカ人と思しき男が一人、ギターをつま弾いている。彼の向こうにもう一人、背を向けている女性がやはり水の枯れた噴水の淵に腰掛け、そして、噴水の奥の建物の閉ざされた扉の前に2人の女性が腰を下ろしている。ところで、この扉はまるでもう何十年もの間、開かれたことがないのではないか、と感じさせるほど、硬く閉ざされている。

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このシーンについて、今僕が覚えているのは、ここがバルセロナのゴシック地区と呼ばれる旧市街の中にある、とある広場で、ある夏の午後に撮影したものだ、ということだけだ。この映像自体に、僕の「意識」は含まれていない。もし含まれていたとしても、4年ほどの間にそれは蒸発してしまったようだ。そうすると、もはやこれは僕が撮った写真ではないということになるのか。

ところで、今日貼り付ける白黒の写真は、去年の10月に帰省した時に撮影したものです。小学生2年生から、中学1年まで住んでいたところなのですけど、あの頃、駅前の広場では、いつも10人くらいの子供たちが集まって、ボールあそびをしたりしていたものですが、今回、気まぐれで電車を降りて、次の列車が来るまでの1時間ほどの間、28ミリのレンズを付けたライカM5片手に歩き回ったのですけど、ひとっ子ひとり、歩いていない。出会ったのは、いっぴきの黒猫だけだったのでした。

まさに、「世界の終わり」が来たとき、世界はこんなかんじになるのかな、と思わせるものがあったのでした。

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子供の頃に親しんでいたはずの風景のあまりの変わりっぷりに、あっという間にフィルム一本を撮り切ってしまったのですが、お店で現像&スキャンしてもらったきり、なんとなく、見返してみる気が起きないままに、放っていたのでした。

懐かしい僕の「フルサト」が喪われてしまったことを再確認することが、ちょっと辛いような気がしたからかもしれません。単に、忙し過ぎた、というだけかもしれないけれど。

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上で引用した「決闘写真論」は、近所の古本屋で見つけて購入した物なのだけど、この本を読んで実に圧倒されるのは中平卓馬氏の怒涛のような叙述、言説の奔流、ページを開き手を伸ばすと、ズブズブと飲み込まれていくのではないかとさえ感じさせる、活字化され、充溢する豊穣でありながら、どこか際限のない砂漠か、沼か、を思わせる思・考空間なのである。写真家とは、いや、「人間」とは、これほどまでに執拗に思・考し、暑苦しいまでに言・述する生々しく、騒々しく、熱っぽい、身勝手な、生・物だったのである、ということに、中平卓馬氏は気づかせてくれるのだ。

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「別の言い方をすれば、不断に自己を超越している存在の永久革命。心のトロツキストとして自己を定立するのかしないのか、ということである。『受容的』であるとはただ受け身であるということではない。その反対だ。解体と再生の永久運動を我が身にひきうけること。そんな時、アトムとしての〈私〉などはただの保身を指すに過ぎない。「私は〈存在〉を乗り越える限りにおいて〈存在〉と連帯している」とフランツ・ファノンは言った。そのことだ。」

(「決闘写真論」篠山紀信中平卓馬 発行日1977年9月20日第一刷 朝日新聞社

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この本が発行されたのは1977年である。僕がこの小さな街にやってきたのは1972年の終わりだったはずだ。そして1979年の春にここを去った。あのころ、この小さな田舎まちは人々と、人々の声や歓声とでみたされていた。今、ここには何もない。この本の中での中平卓馬氏のように、世界と自分の関係について執拗に思・考し、熱っぽく言・述する写真家もいない。50年足らずのうちにまるで皆、あたかも「蒸発」してしまったかのようではないか。

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Leica M5 + Elmarit 28mm F2.8 (2nd Generation) + Tri-X

末端から、少しずつ壊死しようとしているかのような世界の「端っこのほう」の姿を撮ることに、今年は時間とお金をかけてみようかな、と思う令和4年の年頭における僕の所感、なのです。
「受容的であるということはただ受け身であるということではない、その反対だ。」書き手の創造性を否定しながら、読者の「復権」と唱えたロラン・バルトを引用しつつ、写真を「再読」することにある意味を主張する中平卓馬氏の言説には、デジタルカメラで撮った写真と、フイルムで撮った写真との異差を言語化するための手がかりがあるような、気が、するのだが、悲しいかな、この50年の間に、中平氏が「われわれの欲望、本能の構造までも管理され、収奪されている」と憎み、恐れたその目に見えぬ「構造」のなかで飼い慣らされて摩耗し切ったひ弱なこの「思考」では、それから先に踏み込むことができないままに、今夜も私は、愛用の5年落ちのマックブックを閉じるしかない、のである。