ここのところLeica IIIfにズマロン35mmの組み合わせにはまっています。どちらも製造されてから70年くらい経っているのではないかと思うのだけど、シャープに、かつなんとも言えない「渋い」色合いで、よく写るのですよね。IIIfを使っているともうこれで十分じゃない?って思いだすんですよね。
唯一の難点は、やはりフィルムのランニングコスト、ということになりますけど。
海外旅行に気軽に行けなくなって久しいけれど、この「東京」という世界的、一大観光スポットのただ中にて日々生活している私たちは、もしかすると、パリに住んでいるパリジャンたちに比肩しうるくらいの果報者?という感覚は一切ないのですが、しかし、「初めて東京にやってきた観光客」の視点を意識しながら、この街を歩いています。
日本の「伝統」とは何ですか、という問題がそこには入り込んでこざるを得ないから、「伝統的なもの」というと語弊があるような気がするのだけど、古いものと新しいものの混在、同時並行的存在、というのが「東京」の際立った特徴の一つだと思います。外国の都市の場合「古い部分」と「新しい部分」は別々に存在しているようにおもうのだけど、東京では、それらが折り重なるように、本来矛盾するものが同時に矛盾なく存在しているように感じるのです。暴力的でありながら優しくて、生々しく有機的に結合しながらおそろしいほどに無機質な都市の自然風景、というのでしょうか。
東京はこの週が桜の盛りの時期だったようです。
ところで、東京に住んでいる私たちは、なぜこれほどまでに「桜」に熱狂するのでしょうか。
夏目漱石の「三四郎」の冒頭に、大学の新入生として上京した主人公の三四郎が初めて見た「東京」の印象をこのように述べています。
「尤も驚いたのは、何処まで行っても東京が無くならないと云うことであった。しかも何処をどう歩いても、材木が放り出してある、石が積んである、新しい家が往来から二三間引込んでいる、古い蔵が半分取崩されて心細く前の方に残っている。凡ての物が破壊されつつある様に見える。そうして凡ての物が又同時に建設されつつある様に見える。大変な動き方である。」
凡てのものを破壊されながら、あらゆる物が建設されつつある都市において、「私」の過去と現在も、細切れにされていく・・・もしも過去と現在との連続性が信じられなくなり、現在と未来の連続性が信じられなくなってしまったら・・・今夜眠りにつく私が明日の朝目覚めると云う確信が、もしも無くなってしまったら・・・もしかすると、毎年同じ頃に同じように咲き続ける「桜」というこの樹木は、世界の、そして私じしんの「連続性」を信じさせる、私たちの過去と現在とをつなぎ合わせるひとつの縁なのかもしれません。
本来は彩度の高い写りのフィルムのはずなんですが、古いLマウントのズマロンを通すと、彩度の低い、渋い色あいになるようです。
セルフタイマーのレバーのあるなしで好みが分かれる様ですが、私のiiifは「なし」のタイプです。