しまりす写真館の現像室から

カラーネガフィルムでユルめに写真を撮っています

Olmpus OM-1n:安田南には、たぶんサントリーオールドが似合う件

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Olympus OM-1n + Zuiko Auto T 100mm F2.0 + Fujifilm 100

2022年、というとほとんどSF小説か、なんだか悪い冗談のように聞こえるけれど、とにかく、2022年の3月の初めの日曜日の夜遅く、安田南を聴いている。今日は暖かかく、日差しに満ちた、日曜日だった。昼の間に温められた海の水が、この時間になってもまだ、なまあたたかい空気でこの海辺の街を包んでくれている。そんな夜に、僕はこの、今どこにいるのか誰も知らない女性が残していった歌を聴いている。

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Olympus OM-1n + Zuiko Auto T 100mm F2.0 + Fujifilm 100

70年代という時代の空気の中でしか、生きる場所を見出せなかったひと。まだ世界を僕らが換金し、破壊し尽くしてしまったあの時よりも少し前、60年代の政治の時代と、80年代以降の拝金主義の時代のはざま、「創造」という言葉が、「革命」よりも、「経済」よりも、大切なことであると思っていたあの一瞬の停戦地帯に立ちすくんで、初めて呼吸をすることができたひと、そしてそんな彼女の歌声に耳を傾けた人たち。

それが安田南なのだ。

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Olympus OM-1n + Zuiko Auto T 100 F2.0 + Fujifilm 100

このことは、彼女が残した数枚ののアルバムを、静かに聴いているとわかる。あの時僕らは自由という空気をしっかりと吸い込み、そして、その世界が、ついに永遠に続くと信じた。そう、誰もいない夕方のゴルフコースを散歩する「僕」と「双子の女の子たち」のように、あのとき、何もかも失った僕らは貧しく、寂しく孤立して、しかし、自由で、かつささやかに、満たされていたのだ。

なぜなら、僕らは僕らじしんをまだ売り渡してはいなかったから。

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Olympus OM-1n + Fujicolor 100

もちろんそんな幸福な時間は永く続きはしなかった。砕け散った時間のかけら、希望のかけら、僕らが信じた自由の残滓を、安田南の歌を聴いていると、僕らは思い出す。そう、50年近くも経ってから、あの時代を僕らに思い出させるために、そしてそれがいかに刹那的な、ほんの僅かな間にしか続かない時なのであったかということを思い出させるために、彼女は歌ったのだ。今ようやく、棚の奥にしまわれていたレコードの埃を払って、70年代の六本木の煙草と安いサントリーウィスキーの匂いに包まれた安田南の優しい夜の歌声を再び聴いて、僕らはそのことに気がついたのだ。

ねえ、君はそうは思わないか?

いずれにせよ、安田南の歌声には「山崎」や「白州」よりもサントリーオールドがよく合うのだ。たぶん、それは間違いないことなのであろうと、ぼくは思う。