しまりす写真館の現像室から

カラーネガフィルムでユルめに写真を撮っています

Leica M3とエルマーで「記号論講義」を考える

「デジタル記号のシステムによって導入されるのは、じつは記号の合成によるシミュレーションという出来事です。」

石田英敬記号論講義 日常生活批判のためのレッスン」ちくま学芸文庫 第11章

「ヴァーチャルについてのレッスン」より)

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Leica M3 Double Stroke + Elmar 50mm F3.5 + Acros 100

よく晴れた日曜日の日中に、近所のお宅の桜の木を撮らせていただく。なんだか昭和20年代の映画のワン・シーンふうになりました。

ここのところ、いつも東京まで出かけていって、街の様子や、縁もゆかりもない住宅地の様子を撮ることが多かったのですが、慣れ親しんだ静かで身近な風景を撮るのも悪くないな、と久しぶりに感じました。

この日は初夏を思わせるような澄んだ空気で、少し風があって、Elmarの調子も上々です。

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フィルム代も捻出しないとならないし、置き場もなくなってきたしで、とめどもなく増殖しているカメラを少し整理しようかなと考えだして、その第一候補が2台のM3のどっちかかな、と考えていたのですが、50ミリのレンズにはやっぱりM3のファインダーが一番しっくりきます。それに、このダブルストロークも若干まき上げの挙動があやしいときがあるので・・・やはり両方ともキープかな。。

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Elmarがいいのか、富士のアクロスが優秀なのか、それとも撮影者の腕がいいのか(笑)、あるいは単なる気のせいなのか、石灯籠が実に透明感のある描写で描かれています。写真屋さんのスキャンの腕がいいのかも。

下はお寺の手水鉢の中に生けられていたお花を写したのですが、こちらも実に透明感がある様に感じます。

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ようやく「記号論講義」という本を読了しました。600ページもある文庫本だったのですが、11のシャプターにわかれていて、それぞれが一つの評論として完結しているので、結構読みやすかったですし、実に色々と示唆のある内容で、何度か風呂で湯の中に落としそうになりながらも、無事、最後まで読み通すことができました。文庫本にしては高価(1700円+税)なので、風呂の中に落としたりしたら、心的ダメージがハンパないです。

「アナログのカメラによって撮影された写真をスキャナーで取り込み、コンピュータで画像処理する場合のことを考えてみましょう。アナログ写真に映った被写体の像という図像記号は、コンピュータに取り込まれたときから画素のマス目によって合成(synthesize)された像として、指向対象との結びつきを失うことになります。」

石田英敬記号論講義 日常生活批判のためのレッスン」ちくま学芸文庫 第11章

「ヴァーチャルについてのレッスン」より)

そうであるとすると、今回ここに貼り付けた様に一度スキャンされてデジタル化された画像は既に「指向対象との結びつきを失った」像である、ということが言える。逆にいえば、スキャンする前のフィルムに焼き付けられた像や、スキャンせずにフィルムから直接プリントしたものは、「指向対象との結びつき」を失っていないということになるのか。仮にこれが居酒屋のメニューであったとして、お店の人から「指向対象との結びつきなし」と「あり」と、どちらになさいますか?と、いう問いかけであったとすると、「あり」の方が断然、なんとなくありがたいと感じるのは、私という存在が依然として前近代に留まっているからに過ぎないのであろうか。

フィルムで撮った写真、今度は紙に焼いてもらおうかな。でもそれをこのブログに載せるためには紙に焼いたものをスキャンしないとならないから、結局、「指向対象との結びつき」を失ってしまうんじゃないのかな。つまり、このようにコンピュータ技術を使用したインターネット上の行為にならざるを得ない限りは結局のところ「指向対象との結びつき」を失ったものになるであろうということはあらかじめ予言されているということか。しかし、年明けの「あけおめ」をLINEで友達に送り、大晦日紅白歌合戦を地デジで観るという今日の私たちの生活の9割以上がコンピュータ技術を使用したインターネット上の行為に満たされているという状況にあるわけであるから、既に私の社会生活全体が「指向対象との結びつき」を失ったものになっているということなのかもしれないが、これはまさに、つまり、1980年代における「北斗の拳」の主人公ケンシローが放ったあの名言:「お前は既に死んでいる」ということなのか・・・

そんなことを延々とぐるぐる考えるきっかけになるという意味で、実に面白い本でした。最後まで読みとおした結果、宇多田ヒカルの20年前のデビューアルバムを初めて聴くことにもなりましたし。