しまりす写真館の現像室から

カラーネガフィルムでユルめに写真を撮っています

Leica M6:つゆのあとさき

Leica M6 + Summicron 35mm 第二世代 + Kodak Portra160

今日はM6の中のコダックポートラを撮り切りました。久しぶりに日頃足を伸ばさないあたりに足を伸ばしてみると、いやはや、あちこちのお屋敷が取り壊されて更地になっていたり、日頃撮り慣れていた風景も、どんどんと変わっていくことに改めて気がつきました。

この辺りもこまめに撮っておかないと、あと10年もしたら、どんな風景になっていることやら、全く油断はできない。

この辺りはかつて岩崎弥太郎のような経済人や政治家、そしていわゆる文人墨客の類の人たちがお屋敷を構えたあたりである。そういう意味では、ある意味はなもちならないというか、反革命的というか、反市民的というかなんというか・・・そう、「貴族的」なのだ。

しかし、今や全面的に民主主義化したこの国において、この街もけして無傷でいることはできない。革命的かつ民主主義的世間様のチカラで、全ての反民主主義勢力、とりわけ労働の苦しみとは無縁な貴族どもがのんびり風月水墨を愛でたような、非生産的かつ耐震構造も満たしていない危険極まりない反市民的建築物は、市民主義、民主主義という名のブルドーザで一気に革命化してしまうのである。

このところ、戦前〜戦後に活躍したある作家が住んでいた和洋折衷のお屋敷が売りに出されているが、なかなか買い手がつかない、という話を何かで読んで知ってはいましたが、この日何気なく路地の奥を覗いてみると、売るとか売らないとか、買うとか買えないとかグダグダ言ってるのは効率的な資本主義運営の観点からしてこれはまさに全くの無意味、非生産的極まりないということになったのか、さらっと更地にされておりました。

ところで、最近私が凝っているのが永井荷風の小説、そしてペンタックスなのです。ペンタックスといえど、近ごろ噂の「本気」のデジタル一眼レフではありません・・・もともと近所のカメラ屋さんにて譲っていただいたフイルム一眼レフのSL(28ミリのスーパータクマー付き)を持っているのですが、本日M6で撮り切ったカラーネガの現像をお願いに行ったところ、「そういえば、ダンナ、こんなのもありますよ・・」と囁かれ・・・

またやっちまいました・・・奥が先住のSL、手前が新入りのSPです。

来日したポール・マッカートニーも、フォン・カラヤンも、買い求めたというSP、前から欲しいと思って物色はしていたのですが、ネットの中古カメラ屋さん情報では結構法外なお値段がつけられているので、「ま、SLでいっか。いまどき絞込み測光方式の露出計なんて使わないし・・・」と、「酸っぱいブドウ」していたのですが、コダックの35ミリポジフィルム1本よりもお安いお値段設定をされてしまっては、これはもう悩むいとまもなく即決で我が家にお迎え。

まだフィルム通してのシェイクダウンはこれからですが、楽しみです。

久しぶりにM6を持ち出しましたが、いいですね。このカメラとレンズが最初に買った私のmy first Leica。その後色々と手を出してしまいましたが、結局は最初に「正解」を出していたんだな・・・と、改めて感じました。

90年代〜2000年代のライカブームの頃M6は「現行機種」というのが仇になって「つまんねー奴」扱いされていたようですが、気がつけばあれから四半世紀が経過して、ちょうど1990年代におけるM4とか、M5的な立ち位置になってきたというか、今や立派なクラシック。

考えてみれば、M5だって現行機種のうちは、「デカすぎ」「弁当箱」「ライカじゃない」とか言われて散々だったけど、M6の時代になると、「追針式の露出系が使いやすい!」「ファインダーを除いたままシャッターダイヤルを人差し指一本で回せる!」「大柄なボディは大口径レンズとのバランスも絶妙だ」「最後のウェツラー製」・・・と言った具合に絶賛の嵐になったというわけなので、カメラも、人間も、現役を終えてからその真価が理解されるということになるのでしょうか。