しまりす写真館の現像室から

カラーネガフィルムでユルめに写真を撮っています

Nikon S2 & EM: 新橋、ホッピー、そして世界の「画角」についての考察。

Nikon S2 + Nikkor 50mmF1.4 + Acros 100

 

「神よ。我に50ミリのレンズを与えたまえ。」

新橋のやきとんやでホッピーを酌み交わしながら、僕の古い友達がいった。

「おもいかえすに、僕は、あたりのいろいろなものごとを、ひとつひとつ、一人一人の対象の、ごく一部を視認し、切り取られた小さな断片的なイメージを繋ぎ合わせて、世界全体を理解しようとしてきだのだ。

135ミリぐらいの望遠レンズ一本で、ドキュメンタリーを撮ることを想像してみてほしい。そうすれば、それがいかに不自由で、不自然な努力であるか、君なら想像がつくだろう?もちろん、世界の全体像を認識して確認し、理解するというその作業には、とうぜん、とても時間がかかることになった。そのようにして撮り集めた断片的なイメージを結合し、統合する過程では、僕が意図するとしないとにかかわらず、不可避的に、勘違いや思い込み、誤解、早合点、つなぎ合わされなかったもの、重複して覆い隠されてしまった、あるいはご都合で省略されてしまったもの、意図的に忘却されたものなどなどが生じることになった。その結果、僕が把握するに至った世界は、粉々に叩き割られたステンドグラスの聖母像を慌てて繋ぎ合わせたように不完全でいびつなものになってしまったのだ。しかし、僕はそれこそがこの世界であると信じるほかなかった。それ以外のオプションはなかったから。」

「そう、『それ以外のオプションはない』という状況に置かれた時には、人間たちは大抵のことはできてしまうのだ。いかなる過ち、どんなに愚かしいこと、後から振り返ってみれば、そのような明らかに誤った行為をなぜやってしまったのかというようなこと、何十万人という人々を計画的に、あるいは一瞬で、殺戮することも『それ以外のオプションはない』という正当化を与えられたとき、人間たちは罪悪感を感じることも、思索を巡らすこともなく、機械的にそれをすることができる。そこには、『思いやり』も、『よりそって』も、『絆』もないんだよ。」

「ねえ、君はあまりにシニカルにすぎるよ。」

「そうかな。でも僕はそう思うんだ。ああ、もしも僕が、もっと人生の始まりの段階で、28ミリくらいの広角レンズを与えられていたならば・・・世界はずっと違って見えるだろう。そして、世界を理解するのにこんなに時間はかからなかったはずだ。

しかし、今更そんなことを言っても仕方がない。

僕はこれからもこの砕け散ったモザイクの世界を生きていくことだろう。そして、視野の狭い望遠レンズで除いた世界の断片を、誤謬と偏見に満ちた僕の思想で繋ぎ合わせ、救いようもなく歪んだ世界観を作り続けていくのだろう。

それは、やむを得ないことなのだ。

僕が唯一、望みたいこと。28ミリとは言わない。35ミリでなくてもいい。今更遅いかもしれないけれど、もう少し広い画角が欲しかった。せめて50ミリくらいの画角で、お願いできませんか。」

そう言って、友はホッピーのジョッキを空にした。「すみませーん、お兄さん、ホッピーの白の中、お願いします〜」

Nikon EM + Nikon Series E28mmF2.8 + Kodak Gold200

僕の憧れのブランドは、なんだかんだと言って、ニコンである。だから、結構高かったけれど、Z9を特集したMook本も買ってしまった。しかし「ブランドとして憧れている」ということと「道具として手に馴染む」ということは少し違うのかもしれない。FM2もF2も使っていたのだけど、結局二束三文で手放してしまった。でも、そうであるにもかかわらず、数ヶ月後には結局Fの初期型を買い戻し、S2を衝動買いしたりしていて、目下のお気に入りは、5年ほど前に銀座の教会の8階にあるカメラ屋にて、冷たい秋雨の降る日曜日の午後早い時間から飲み始めて酔った勢いで購入した、このNikon EMである。小くて手に実によく馴染むし、今頃の時期には金属ボディのように冷たくないプラボディが優しいのだけれど、同じく中古で手に入れたEシリーズの28ミリレンズは絞りの情報がうまくボディ側に伝わらないのか、露出制御が効かない。それでしばらく放置していたのだけど、最近買い戻したAi-Sの50ミリレンズを使うときちんと自動露出制御が機能しているようだ。

「一つのことが終わると、もうどこか別のところに行きたくなるのです。どうしてもです。」(「ダイアン・アーバス作品集」より)

昨年末に近所の古本屋さんで見つけたダイアン・アーバスの写真集、いいお値段だったけれど、結局買ってしまった。1973年6月に西武百貨店で開催された写真展の際に出版されたもののようだけど、所々に税関職員によって黒マジックで墨入れをされている、このような写真集を、百貨店が企画出版していたということがかえすがえすも驚くべきことだと私は思うのである。冒頭のアーバスの写真に関する記述がいい。

「より個別的、特徴的であろうとすれば、それだけ、より普遍的になるのです」

「知っておかねばならない大切なことは、自分は何も知らないということ、自分はいつも手さぐりで歩いているということです。」

一体、いつの間に僕らは言葉を失ってしまったのだろう。自らを表現し、あるいは友に語りかける言葉を。すごく大切なことを僕たちは諦めてしまったのではないのか。それ以外にオプションがなかったということなのかもしれないけれど。