しまりす写真館の現像室から

カラーネガフィルムでユルめに写真を撮っています

スメルジャコフ曰く:「賢い人とはちょっと話すだけでもおもしろい」

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Leica M5 + Elmarit 28mm + Kodak Tri-X

「神さまがぼくの心に、兄さんにそう言うようにって、務めを課したんです。たとえ、この瞬間から、兄さんが永久にぼくを憎むことになろうとです・・・」(光文社「カラマーゾフの兄弟 4」第11篇 「兄イワン」より)

昨年来読み続けてきたこの本も、けつまつまで400ページのところまで迫ってきましたが、ロシアって昔はソ連って呼ばれてたんですよね。そして、昔はヨーロッパに行くのには、アンカレッジ経由で北極の上を飛んでいかないとならなかったんですよね。

さいきん1980年代のできごとを調べたり、確認するのがひつまぶしいやひまつぶしの趣味になっています。ソ連の領空上で民間の旅客機が撃墜されるという事件が起きたのも、1983年のできごとでした。私にとっての1980年代は、ジョン・レノン射殺事件に始まり、昭和天皇のご崩御に終わった、という認識であるが、世界的には、「ベルリンの壁の崩壊」が1980年代を締め括る大事件だったのだろう。

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Leica M5 + Elmarit 28mm + Kodak Tri-X

なぜ、今、1980年代かと言うと、ふとしたはずみでひさかたの光のどけきはるのひのひさかたぶりに村上春樹の初期3部作を読んで、その続きで、「羊をめぐる冒険」のその後の物語である「ダンス・ダンス・ダンス」をほんとうに久しぶり、多分最初に買って読んだ時以後、再読したのは初めて?かどうか思い出せないくらいに久しぶりに読んだわけです。しかし、中盤までは楽しく読んでいたのですが、最後まで読んで、この小説があまり好きにはなれなかったことを思い出しました。。個人的には一番好きなのは「1973年のピンボール」で、その後の「羊」からははんぶんファンタジーの世界に行っちゃって、若干ついていけない感じがあり、「ダンス・・・」ではまるまるファンタジアになってしまってるというのもあるのだけど、この話、最後まで読むと、ものすごい不安感のようなものに襲われてしまうのですよね。。

(以下、「ネタバレ」を含むので、これからこの本を読もうと思っている人は、ご注意ください。)

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Leica M5 + Elmarit 28mm + Kodak Tri-X

この物語は1983年3月に始まって、それから3ヶ月程度、たぶん夏がくる前ごろに終わる。全体において、「僕」が考えたり、想像したりしたことが、全てそのとおり、思いのままになるというある意味「チョー便利」なおはなしで、話が行き詰まりそうになると超能力者みたいな女の子が出てきて、解決してくれたり、もしくは解決へのいとぐちを教えてくれる。寂しくなって13歳の女の子にワインやカクテルのお供をさせても誰も文句をいわない。いくら酒を飲んでも車に乗るときまでにはアルコールは抜けている。そして死すべき者が死に、死んじゃ困る人は「消えて」はいるけど「死んで」はいないことになるという、どれくらい便利かというと、壁を通り抜けて、向こう側に行ったり、こっち側に戻ってきたり、自由にできるぐらい、便利、まさに自由自在、融通無碍、なのだ。

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Leica M5 + Elmarit 28mm + Kodak Tri-X

KINDLE電子書籍版にはないけど、僕が持っている紙の単行本にはみじかい「あとがき」があって「この小説は一九八七年十二月十七日に書き始められ、一九八八年の三月二十四日に書き上げられた。」とある。ある意味1980年代をふりかえりながら書かれた小説と言えるのではないか、という気がします。

この小説のあちらこちらで出てくるのが「高度資本主義」という言葉です。「羊をめぐる冒険」が1978年の7月に始まって、その年の秋(北海道の北のほうの山の上で雪が降り始めるころ)に終わるのですが、1978年といえば日経平均株価が五千円ぐらいで始まって六千円ほどで終わってる。この物語の舞台設定となっている1983年は八千円ほどで始まった株価が一万円まで上がってる。

この小説が書き終えられた1988年3月24日は日経平均終値25,781円だ。そして1989年の1年の間に九千円近く上がった日経平均株価は年末に38,915円と、四万円のてまえまで高騰した。

すごーい。今から考えるとまるで夢か幻のような世界。「高度資本主義」のもとで、日本はまさに「なんでも思いどおりになる、チョー便利」な世界だったのかもしれない。

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Leica M + Summilux 50mm

あと、この小説の主人公って、自由文筆業というか、いわゆる「フリーター」のような生活をしてるのですね。浅田彰の本がヒットして(「構造と力」が発刊されたのも1983年だ)、いちばんイケてるテツガク的ポジションが「スキゾキッズ」などといわれてたころ組織にしばられない「フリーター」的生き方ってけして皮肉とかでなくて、憧れの職業とされていたように思う。日経平均株価に象徴される大きな「波」の上に乗っかっていれば、まあ食うには困らないわな、という雰囲気があったような記憶があります。

1990年の10月1日に日経平均株価は二万円近くまで下げて、バブルは終焉を迎えることになるのですが、その前夜とも言える「チョーイケイケ」な世界を背景としているのがこの「僕」を主人公とする一連の物語の4作目(多分5作目は、もうないのでしょうね。あれば面白いと思うけど)と、いえるのではないかと思いました。

でも、なんでも思ったとおりになって、壁の向こうとこっち側を自由に行き来できるようになってしまうというのは、ある意味、とても不安な状態ともいえるのではないかと思ってしまうわけです、壁が壁でなくなってしまうということは。エレベータを降りたら真っ暗な別の世界だった、というこの小説の主人公たちのように、ふと気がついたらあっち側に逝ってっちゃっていることもありうるわけで。

あのバブルの「上潮」に乗っていたときの僕らにとっては、この物語の結末はポジティブに受け止めることができたのかもしれないけれど、あの神話のその後の顛末を知ってしまったあとで読んでみると、不安しか感じない、ということなのかな。

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Leica M + Summilux 50mm

ところで、この小説の最初の方で、登場人物の女の子が「ウォークマン」でロックを大音量で聴いている、というシーンがあるのですが、それに影響されてしまいました私は、久方ぶりにソニーの「Walkman」を買ってしまったのでした(ほんとうに影響されやすい性格なのです)。で、使ってみて、iPhoneがどれだけ使いやすいか、よく分かったというわけなのですが(というか、小さな液晶の上でGoogleやMoraを設定するのに手間取ってしまって、「昔は、買って箱から出して、電池入れてカセット入れたら聴けたのにな」と思いました)、もう一つ発見してしまったのが、「ハイレゾ」って確かに音が違う、少なくとも私のやや難聴気味になってきたポンコツ耳でも違うような気がする、ということです。もしかして、ハイレゾ音源って、普通の音源と違うと感じるように編集してんのかな、と勘ぐりたくなるくらいです。

ということで、今月はハイレゾ音源にすっかり散財してしまいました。。

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この2冊、当時買った初版なのですが、いまだに手元にあるのが不思議です。「ハードボイルドワンダーランド」や「ノルウェイの森」も本が発売されたその日くらいに買って読んだのですが、人に貸したきり返ってこなかったり、実家を処分した時にまるごと廃棄したりでもう残ってないのだけど、村上春樹の作品の中ではどちらかというと苦手だったこの本だけが、手元にあるということは、いつか忘れたけど実家の本棚から救出したのかな。しかし実家から救出したとすれば、これよりも好きだった「ハードボイルドワンダーランド」がもう手元にないのが不思議だ。ピンクの箱に入ってて、綺麗な本だったので、持ち出すとすればそっちだったはずなのだけど。

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Leica M + Summilux 50mm

いずれにしても、当時は、まさか早稲田大学村上春樹の図書館ができる、しかも超一流の建築家がデザインしたピッカピカのが、なんてことは、まったく予想もつかなかった。ジェイや鼠がこのことを知ったら、なんて言うだろう。ジェイならフライドポテト用のじゃがいもの皮むきの手を休めて「へえ」というかもしれない。鼠だったら、飲みすぎたビールを吐きだすために、慌てて洗面所にむかうのかもしれない。双子の女の子だったら、右側が「すてきね」と言い、左側が「すごい」と言うのかもしれない。羊男だったら・・・

まさに「この世界ではなんでも起こりうるんだよ。なんでも」ということなのでしょうか。

 

帰省、そして、ワールド・エンド

ヴァルター・ベンヤミンはカメラが発明される前までの〈芸術〉は意識が支配する〈芸術〉であったが、カメラは〈芸術〉に無意識の領域を持ちこんだとし、それを評価した。私もそう考える。」

(「決闘写真論」篠山紀信中平卓馬 発行日1977年9月20日第一刷 朝日新聞社

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デジタルカメラで撮った写真は数ヶ月で忘却の彼方なのに、フイルムで撮影した写真はそうではない、ということを前回書いたのだけど、正直言いますと、前回貼り付けた4枚目の写真は、撮影したことを全く忘却していたのでした。つまり、デジタルであれ、フィルムであれ、忘れるものは忘れる、ということなのである。

しかし、ライカM3で撮影した写真をアップしようと「M3」をキーワードにFlickrの写真を検索しているうちに、この写真に目が止まった。現像してもらって、写っている映像を確認した後、そのまま忘れてしまっていたのですが、4年以上の時間を隔てて、あらためて見返してみると、水が抜かれて干からびてしまった広場の噴水の縁に女性が向かい合うように腰を下ろしており、その女性に向かって、こちらに背を向けている少年との3人は、親子であろうか。そしてこの3人とは関係なく、左側にアフリカ人と思しき男が一人、ギターをつま弾いている。彼の向こうにもう一人、背を向けている女性がやはり水の枯れた噴水の淵に腰掛け、そして、噴水の奥の建物の閉ざされた扉の前に2人の女性が腰を下ろしている。ところで、この扉はまるでもう何十年もの間、開かれたことがないのではないか、と感じさせるほど、硬く閉ざされている。

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このシーンについて、今僕が覚えているのは、ここがバルセロナのゴシック地区と呼ばれる旧市街の中にある、とある広場で、ある夏の午後に撮影したものだ、ということだけだ。この映像自体に、僕の「意識」は含まれていない。もし含まれていたとしても、4年ほどの間にそれは蒸発してしまったようだ。そうすると、もはやこれは僕が撮った写真ではないということになるのか。

ところで、今日貼り付ける白黒の写真は、去年の10月に帰省した時に撮影したものです。小学生2年生から、中学1年まで住んでいたところなのですけど、あの頃、駅前の広場では、いつも10人くらいの子供たちが集まって、ボールあそびをしたりしていたものですが、今回、気まぐれで電車を降りて、次の列車が来るまでの1時間ほどの間、28ミリのレンズを付けたライカM5片手に歩き回ったのですけど、ひとっ子ひとり、歩いていない。出会ったのは、いっぴきの黒猫だけだったのでした。

まさに、「世界の終わり」が来たとき、世界はこんなかんじになるのかな、と思わせるものがあったのでした。

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子供の頃に親しんでいたはずの風景のあまりの変わりっぷりに、あっという間にフィルム一本を撮り切ってしまったのですが、お店で現像&スキャンしてもらったきり、なんとなく、見返してみる気が起きないままに、放っていたのでした。

懐かしい僕の「フルサト」が喪われてしまったことを再確認することが、ちょっと辛いような気がしたからかもしれません。単に、忙し過ぎた、というだけかもしれないけれど。

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上で引用した「決闘写真論」は、近所の古本屋で見つけて購入した物なのだけど、この本を読んで実に圧倒されるのは中平卓馬氏の怒涛のような叙述、言説の奔流、ページを開き手を伸ばすと、ズブズブと飲み込まれていくのではないかとさえ感じさせる、活字化され、充溢する豊穣でありながら、どこか際限のない砂漠か、沼か、を思わせる思・考空間なのである。写真家とは、いや、「人間」とは、これほどまでに執拗に思・考し、暑苦しいまでに言・述する生々しく、騒々しく、熱っぽい、身勝手な、生・物だったのである、ということに、中平卓馬氏は気づかせてくれるのだ。

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「別の言い方をすれば、不断に自己を超越している存在の永久革命。心のトロツキストとして自己を定立するのかしないのか、ということである。『受容的』であるとはただ受け身であるということではない。その反対だ。解体と再生の永久運動を我が身にひきうけること。そんな時、アトムとしての〈私〉などはただの保身を指すに過ぎない。「私は〈存在〉を乗り越える限りにおいて〈存在〉と連帯している」とフランツ・ファノンは言った。そのことだ。」

(「決闘写真論」篠山紀信中平卓馬 発行日1977年9月20日第一刷 朝日新聞社

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この本が発行されたのは1977年である。僕がこの小さな街にやってきたのは1972年の終わりだったはずだ。そして1979年の春にここを去った。あのころ、この小さな田舎まちは人々と、人々の声や歓声とでみたされていた。今、ここには何もない。この本の中での中平卓馬氏のように、世界と自分の関係について執拗に思・考し、熱っぽく言・述する写真家もいない。50年足らずのうちにまるで皆、あたかも「蒸発」してしまったかのようではないか。

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Leica M5 + Elmarit 28mm F2.8 (2nd Generation) + Tri-X

末端から、少しずつ壊死しようとしているかのような世界の「端っこのほう」の姿を撮ることに、今年は時間とお金をかけてみようかな、と思う令和4年の年頭における僕の所感、なのです。
「受容的であるということはただ受け身であるということではない、その反対だ。」書き手の創造性を否定しながら、読者の「復権」と唱えたロラン・バルトを引用しつつ、写真を「再読」することにある意味を主張する中平卓馬氏の言説には、デジタルカメラで撮った写真と、フイルムで撮った写真との異差を言語化するための手がかりがあるような、気が、するのだが、悲しいかな、この50年の間に、中平氏が「われわれの欲望、本能の構造までも管理され、収奪されている」と憎み、恐れたその目に見えぬ「構造」のなかで飼い慣らされて摩耗し切ったひ弱なこの「思考」では、それから先に踏み込むことができないままに、今夜も私は、愛用の5年落ちのマックブックを閉じるしかない、のである。

Leica Up to Three.

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Leica M3 + Elmar 50mm F2.8 + Provia 100F

ウイスキーは2杯まで、と村上春樹氏はその著作「羊をめぐる冒険」の主人公である「僕」に言わせている。曰く、ウィスキーは2杯目が一番美味しい。「3杯目から先は味なんてない」ただ胃に流し込んでいるだけである、と。

その主人公「僕」が愛飲しているのが、カティーサークだ。今カティーサークを愛飲している人はどれくらいいるのだろう。最近は酒屋でもあまり見かけなくなったような気がする。

社会人になって、1年目のころだと思うんだけど、会社の寮の近所の酒屋でウィスキーを買いたいと思って、店の棚の前で「角」にするか、それよりも下の「ホワイト」にするかで、10分くらい悩んだことがある。角は1000円を超え、ホワイトなら1000円以下で買える。当時の僕にとって、1000円は大きかったのだ。舶来もののウィスキーなんて、手が出なかった。カティーサークもだ。

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Leica M3 + Summicron 35mm + Provia 100F

それからさほど立たないうちに、友人の結婚式の2次会が六本木であって、みんなが飲み残したバランタインを2本もらってタクシーで寮まで帰った僕は、運転手さんにそのうちの一本をあげたことがある。あのバブルってやつがささやかな僕の生活にも影響を与えていたというわけである。

久しぶりに「羊をめぐる冒険」を再読して懐かしくなった僕は、近所の酒屋でカティーサークを見つけて、買ってみた。1300円ほどだった。なるほど1杯目はほっとして、2杯目は目の前の坂を登るのに一生懸命だった頃の味を少し思い出したような気がしたが、3杯目からはやはり味がしなくなるのであった。

イカについても、「表現のために使うライカ」の数は3台まで、と田中長徳氏がその著作「Leica, My Life」で述べている。私の3台目のライカはIIIfであった。4台目がこの、シングルストローク1960年製のM3だ。ライカは4台目でもちゃんと写真が撮れるのだ。味がしなくなるということは、多分、ない。

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Leica M3 + Elmar 50mmF2.8 + Provia 100F

やはり田中長徳氏がその著作「Leica, My Life」の中で述べていることに、デジタルカメラで撮影した写真は数ヶ月経つと忘却の彼方である、というのだ。今回アップロードする写真はいずれも5年ほど前に撮影したものなのだけど、なるほど、それぞれのカットをなぜか記憶しているのだ。実際には、フィルム撮影の場合、撮影した写真をその場で見ることはできないから、日本に帰ってきて現像してもらい、スキャンされた画像を見て、そこで記憶と映像が初めて結合したはずなので、「撮影した時のことを記憶している」というのも正確ではないような気がするのだけど。

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Leica M3 + Summicron 35mm + Provia 100F

プロビアもすっかり高くなってしまって、おいそれと使えなくなってしまったけれど、こうして昔に撮った写真を見返してみると、やっぱりいいな、と思います。富士フイルムさんには是非頑張って、供給を続けて欲しいな。僕はもう使えない、というか、プロビアを使わないとならないような華々しいイベントが僕にはもう起きなさそうなんだけど、これからライカを携えて旅に出ようという人のために、なんとか、生産をやめないでほしいな。

勝手なお願いですけど。

 



今日はデジ日和:フィルムα値= Pricelessの法則

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ここ最近、フィルムの消費が進んでいません。半年ほど前にタイ米叩いてコダックのポートラ10本仕入れたのですが、未だにほとんど捌けてない。やはり一本1,500円を超えると、何かよほど面白いものやことがあるという予感がある日でなければ、カメラに装填するのを躊躇してしまうんですよね。。

先日久しぶりにSDカードを新調しようとおもって、ヨドバシカメラに行ったんですが、店頭に並んでる一番容量の小さいカードって、32ギガなんですね。動画も撮らないし、現像ソフトに読み込む時間がかかるのが嫌なので、ハードディスクに吸い上げたらSDはすぐに消去しちゃう派の私にとっては、8ギガもあれば十分なのですが、結局生まれて初めて32ギガという大容量のSDXCカードを買いました。お値段4,380円。家に帰って使ってみたら、なぜかiMacのSDカードリーダーでは認識されないという問題が見つかったのですが、カメラに入れて使う分には大丈夫そうなので、このところ2軍扱いとなっていた我が家の「デジタルカメラ軍団」の中では唯一動画撮影する可能性のあるX-T4のRAWファイル用第1スロットに挿しっぱなしで運用することといたしました。

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そうするとRAWデータで500カット以上この一枚のSDカードで撮れるのですよね。FINEのJpeg画像だと2,000カット、ノーマルのJpegならなんと2,900カットも取れてしまうわけです。

これが4,380円・・・ポートラだったら、買えるのはたったの2本で72カット分です。仮にフィルム1カットの画像としての価値=デジタルのRAWと仮定して逆算すると、32ギガのSDカード=コダックポートラ14本というけーさんが成り立つのであったがこれは、以下のようなほーてい式となるわけである。

1X32GB=4,380円Xα

14XKodak Portra160=24,920円

この数式においてαの値を求めると、これがすなわちデジタルでなくフィルムで写真を撮ることの無形の「価値」を数値化できるということを、いま、私は突如として発見したのである。

5.6894922 = priceless

これを「フィルムα値」と命名する!

ふーん。フィルムで撮影する「無形の価値」は、デジタルの6倍程度か。。大したことないな、っておもったがよく考えてみると、確か2004年頃に私が初めて買ったデジカメ、Sony Cybershot DSC-W1は本体が4万円弱で、当時の私にとっては一大決心にて購入に踏み切ったわけです。レンズにカール・ツアイスって書いてあるのが、当時カメラに関する知識ゼロだった私にとっても、なんだかありがたいような気がしたのでした。そこで、ツーカーのケータイで家内に架電、予算4万円以内で黒はダメ、銀色なら可とのご許可を得たうえで店員さんに「これにします」と告げたのでした。

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懐かしの愛機、Sony Cybershot

ところが、カメラとは別に記録メディアを購入しなければならず、そいつが1万円近くすることを店員さんから告げられて、ヤマダ電気の売り場で悲鳴を上げた記憶があるのですが、その後、数年にわたって愛用し、色々楽しく撮影したのち、丹沢の清流に水没してオシャカ様となってしまったカメラをただいま引っ張り出して確認したところ、メディアの容量はなんと128メガバイト。。。今のX-T4のRAWデータって、計算間違えてなければ(よく間違えてるのであてにしないで)32MBあるので、このメモリースティックPROでは、ななんと4カットしか撮れないのです。っつうことは、

1X128MB = 8,000円(記憶曖昧だが確か)Xα

1XKodak EktarX4cut/36cut(2010年ごろまでは確か600円程度だったような)=66.67円

なので、2004年におけるフィルムα値は0.00833375です。

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つまり2004年において0.0083であったフィルムα値は20年弱経過した2021年においては682.756502倍となったわけである。

低迷するデフレ日本においては、まさに爆騰です。

今後この「フィルムα値」がこれ以上の高騰を続けないように、来年の初詣では神様にお祈りすることにしよう。

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そういったわけで、今回はお小遣い節約のため、昨日撮ったデジタル画像となります。こうして、撮ってすぐに結果がみれるというのは、味気ないような気もしますが、やはり、便利ですね〜。

冷蔵庫の中のPortraの賞味期限は2022年11月。こいつを捌くため、来年はどこか写真旅行にでも行きたいなー。

と、いったようなブログを書きながら合間あいまにうちの猫たちをM6で撮っているうちに、1本取り切ったので、ポートラで撮影した画像をライカのフルサイズデジタルの画像と並べて、アップロードしておきます。こうして比べてみると、フィルムの良さって、白黒はっきりつけず、曖昧でぼやっとしたところにあるのかな、と思いました。デジタルも綺麗だなっておもったけど、やっぱりフィルムで撮った画像もいいな・・・

Film never die, yes, it shouldn't!

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Leica M6 + Summicron 50mm + Kodak Portra160

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Leica M6 + Summicron 50mm + Kodak Portra160

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Leica M + Summilux 50mm ASPH + 24 Megabyte CMOS




 

「オレのNikon」 Fの時代

少し前にキムタクがニコンのイメージキャラで、「俺のニコン・・」って呟いて、カメラにチューってキスするCM動画があった様な気がしますが、さすがの私も、カメラにチューはしないのである。それはさておき、ニコン機は以前F2を持っていたのですが、なるほど史上最強の一眼レフと言われるだけあってがっちりしてましたし、見た目もスマートなカメラでしたが、M3ダブルストロークの資金源となって、New FM2やFマウントレンズ一式とともに旅立って行ったのでした。

そして数ヶ月が経ち、いま「F」となって帰ってきた・・・

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軍幹部に「富士山マーク」の初期型。家に持ち帰ってからシリアル番号を確認したら、なんと私と同い年で、多分星座も同じ?だったのでした。

今まで「F」については欲しいと思ったことがなかったのですが、これはおそらくカメラ雑誌での写真が正面から撮影されたものが多いからではないかと。まっすぐ正面から2次元化すると、確かに、「F」の特徴であるとんがり頭が幽霊が額につけている三角布の様に見えるというか、無機的に見えてしまって「古臭いカメラだな」って思ってたんですね。

でもこうして実機を手にしてみると、亀倉雄策がこのとんがり頭にこだわった理由がよくわかったというか、これ、単純に見えてすごく、なんていうんでしょう、相変わらずのボキャ貧ですが、「味」があるっていうのでしょうか。「F」以外のカメラにはない個性的な形です。てっぺんが尖ってるだけではなくて、稜線の部分がビシッと角が立っていて、なんだか金属でできてるんだけど「宝石」のような、独特の「気品」と時代を感じさせない斬新さを醸し出しています。

ニコンといえば報道関係者の御用達という印象があって、「実用品」というイメージを持っていたのですが、いやこれはもう立派な「贅沢品」ですよ。ていうか、当時の報道陣はこういうlittle jewelのようなカメラで報道取材してたんだなって想像すると、「本当に『豊かな時代』だったんですね」っていう気がします。

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Nikon F + Nikkor H Auto 50mmF2.0 + Kodak Tri-X

もう一つ意外だったのが、カチッとした見た目とうらはらな柔らかな操作感。機関部がレンジファインダーニコンSの血を引いてるからなんでしょうか。ソフトなシャッターレリーズの感覚、そしてシャッター音も、F2は「バシャッ!」っていう、まさにオリンパスの米谷さんが一眼レフの「三悪」と呼んだ「うるさい」っていうのはこのことかなって思わせる威勢の良さだったんですが、「F」は、カタカナではなくてひらかなで「ぱしゃん・・」という感じなんですね。

一言で言うと、ハンサムなカメラというか、F2のイメージからあれよりもさらに「体育会系」的なカメラを想像していたのですが、じつは意外と文学青年だった。

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以前はNew FM2に合わせてAi-Sのレンズを使っていましたが、今回は年代的にNikkor Autoの50ミリF2レンズを合わせました。そしてNikkor H Auto 28mmF3.5も追って入手。でもこれって、数ヶ月前に売ったのと同じレンズなんだよな。。本当にお金のムダ遣いとはこのことですね。自分に「喝〜!」です。

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気になる点としては、巻き上げレバーがグラグラします。「F」はこれが仕様とどこかで読みかじって知ってはいましたが、そうでなければ不具合品と思ったでしょうね。あと、あちこち角が立っているので、指が痛い(特に、巻き上げレバーの角)のと、やはり裏蓋+底の部分をごっそり外すというフィルム交換が大変というか、外した裏蓋の処理に困りますね。。フィルム圧板に傷とか脂とかつけたくないなーとか思いながらカメラを持ち替えたりしてるうちに、シャッター幕に親指突っ込みそうになりました(汗)。

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それから、この個体に関しては、裏蓋が少ーし軋む・・・F2も裏蓋の軋みが気になって手放した理由の一つになったのですが、私はこの裏蓋の周辺の「軋み」とか「ガタ」が病的に気になるのです。最近のデジタル一眼カメラも、メディアスロットカバーのところのガタというかあそびが気になって仕方がない。私だけでしょうか。前に持ってたオリンパスE30とか、フジのX-Pro2とか、相当「あそび」があるみたいで、街撮りで、右手でカメラを掴んで歩いてる時にカバーがカタカタすると、萎えるんですよね、何かが。

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とはいえ、この個体が製造されてから50年以上経過しているわけで、この間に世の中で起きたこと、自分に起きたことを思い出してもごらんなさい、すごい時間ですよ、50年って。人間なんか50年のあいだにどれくらい疲弊、消耗、劣化、沈殿、汚損、停滞するか、アンタ鏡をよく見てごらんなさいってなもんですから、私はこのMy Birthyear Nikonの裏ぶたのかすかな軋みに関して何もいえません。

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「人生五十年。下天の内をくらぶれば夢幻の如く也」とはいうものの、よくここまで持ち堪えてきたね、とまるで自分に語りかけるような、そんなNikon Fの使い心地、こいつは売ったりせずに、使い続けようと密かに心に誓う、晩秋の日曜日の午後なのでした。

 

僕のローライ絵日記

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最近のお気に入りはこの古いペンタックスの一眼レフと「Maker's Mark」のバーボン。「Maker's Mark」は最近コンビニでも売ってるけど、700mlのボトルが2,000円足らずで、結構お求めやすいのですよね。開封するときに赤いロウ(ゴム?)引きのキャップカバーを剥がすのも、なんとなく楽しい。

少し前まではシングルモルトやジャパニーズウィスキーがお好きな私でしたが、ふとしたはずみでバーボンの美味しさに開眼してしまい、コロナ禍になって以来ウチ呑みのお供はバーボン一本槍です。「IW HARPER」もお味のコスパが良いのでお好きなのですが、バーボンってアメリカの芋焼酎的なポジションなのでしょうか。ジャパニーズウイスキーも「山崎」や「響」が「高嶺の花」となり、シングルモルトも7、8千円もすることを考えると、バーボンはグッとお財布に優しいので、おすすめです。

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Rolleicord + Xenar75mm + Fujipro160ns

今年も萩の季節になりました。といっても、この夏はおかしなお天気で、妙に寒かったかと思うと急に暑くなったり、ザーザー雨が降ったりで、近所のお寺の萩もどうも元気がありません。まあ、ちょっと元気がなさそうに見えるのがこのお花の魅力でもあるのですが。

萩の花 くれぐれ迄も ありつるが 月出でて見るに なきがはかなさ  源実朝

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Rolleicord + Xenar 75mm + Fujipro160ns

ここのところ、このローライコードでの撮影にハマっています。フィルム1ロールあたり12枚しか撮れず、一カットあたりのコストを考えると膝が萎えそうになりますが、スキャンした画像を見ると、緻密というのでしょうか、解像度が高いというのでしょうか、んーと、ボキャブラリーが貧困で大変お恥ずかしい限りですが、アホアホみたいにパカパカシャッターを切ろうという気にはなりませんが、なんかお気に入りの一枚の生まれる確率も高いように思います。

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Rolleicord + Xenar 75mm + Fujipro160ns

数年前に買ったカメラ雑誌を見返していたら、「フィルムってのは、1日かけて日記を綴るように36カットを使うものだ」という言葉に出会いました。トイレでナルホド!と膝を打つ私。36枚だと最初の方で何を撮ったか忘れてしまいますが、12枚なら覚えていられる。

今日は朝から大雨で撮影に出掛けられなかったけど、明日はローライ(コード)で一日かけて写真日記をつけてみようかな。

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ローライフレックスもかっこいいなと思いますが、お値段もはりますし、重いしで、私的にはこのローライコードでじゅうぶん。一番人気はVb型ですが、御徒町のきくやカメラでいくつか在庫品を見せてもらった結果、絞りやシャッタスピードのレバーを操作しやすいV型にすることにしました。Vb型は、レバーをちょっと押し込んで動かすようになっているのが、誤動作防止のためだと思いますが、個人的には少々ストレスフルに感じてしまったのです。

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レンズシャッタのカメラって、シャッタチャージした後にシャッター速度を変えると、シャッター機構に負荷がかかるのですね。きくやカメラのお兄さんに教えてもらいました。優柔不断な私の場合、露出決定に際してもチマチマと絞り変えたりシャッター速度いじったりするのですが、ローライフレックスは巻き上げるとシャッターチャージされてしまう、ということは、構図決めて、露出決めてからあのなんていうんですか、グルーンってヤツを回して巻き上げと同時にシャッターチャージ、そのあとはシャッター速度変えちゃダメっていうことになりますよね。なるのかな?

ローライコードの場合は巻き上げとシャッターチャージの操作が別々なので、一枚撮影→すぐにフィルム巻き上げる→次の被写体発見→うじうじ悩んで、露出と構図決定→テークレンズの下のレバーをジリリっと引いてシャッターチャージ&レリーズ、っていう流れの方がリズムが掴みやすいのです。少なくとも私にとっては。

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腹が減っているのでしょうか。こういうのをみるとどうしても撮影したくなってしまいます。それにしても、「たまご丼」と「カツ丼」の150円の差って、微妙だな〜。カツ丼が安く見えるというか、意外とたまご丼って高級品なのね、っていうか、そういえば生まれてこのかた、「たまご丼」って一度も食べたことがないような気がするので、今度頼んでみようかな。「力うどん」っていうのも、おもち入りのうどんなんだと思うけど、食べたことないんだよな。50ねん生きてても、食べないものは食べないんですよね、ニンゲンって。

このあたりに、人間の認知能力の限界というか、経験値の限界というか、えーっと、なんていうんでしょう、みんなそれぞれなんでも知っているように思っているけど、実は知らないことってきっとたくさんあるのだ、といいたい。

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「いや、俺は、中華料理屋さんの壁にかけてあるメニューを右端の『ザーサイ(おつまみ)150円』から左端の『エビチリ1800円』まで、一つ残らず、食べたよ」っていう人もいるのかもしれないけど。

ところで、商店街の外れの小さな中華料理屋さんっていうかラーメン屋さんのメニューに「エビチリ」とか「フカヒレ」とか書いてあるけど、あれって常時材料を仕入れているのかな。。余計なお世話かもしれませんが、昔から気になっています。

街を歩いていると、つくづくこの世界って、謎が尽きないな、ということに改めて気がつくのであった。

「サイモンとガーファンクル」

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サイモンとガーファンクル」って改めて文字で書いてみると、少々古めかしい気がする。「サイモン・アンド・ガーファンクル」の方がイマ風の耳あたりだ。イマ風といっても、彼らの歌がメーンテーマだった頃から数えてみると、かれこれ半世紀が過ぎ去ろうとしているのだ。これって、チャイコフスキーの時代に、ベートーベンを愛聴しているようなものといってもよいのであろうか。

ことほどさように、かつて開高健が吟じたとおり「橋の下をたくさんの水が」流れるのである。

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西暦1954 → 西暦2009

さて、ライカM3からリコーGRDIIIへ、写真機も50年の間にこれほど変わる・・・というわけで、無理矢理今日のお題であるリコーGRデジタル3に話を繋げる。

リコーGRは一時期、GRデジタル3、GRデジタル4、APSーCサイズのセンサーを積んだGRの初代を持っていたけど、後の2者は別のカメラ機材購入の際に下取りしてもらい手放してしまいました。GRD3はその時すでに10,000円くらいにしかならない状況だったので、発売とほとんど同じタイミングで正規のお値段(?)で買ったお品物という愛着もあり、私の手もとで朽ち果ててもらうことにしたのです。

といっても、最近は電源を入れることもなくなり、手狭になった防湿庫からも追い出されてしまっておりました私のGRD3、ふと思い立って家の中のものを撮って見たところ、画像設定がスタンダード(カラー)ではなんだかクセのある色味でしっくりこないのですが、白黒モードならぜんぜん使えると感じ、ひさびさに予備のバッテリーも充電して、持ち出してみました。

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Ricoh GR Digital III

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サイモンとガーファンクル」の「America」という歌のなかに「Kathy, I'm lost, I said, though I knew she was sleeping」っていう一説があります。寝てるのわかってんなら、話しかけんなよっていう話じゃないということに、先週の金曜日ついに、というか、ようやく、気がつきました。寝てるのわかってても、話しかけないとならない時があるというか、寝てて聞いてないからつぶやくことができるときって、あるんじゃないかな、ニンゲンって。

「すみません、またこっそり一台、写真機買いました・・・」

ってことじゃなくて。

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GRDIIIって、オートフォーカスは「ウーン、チャッ」っていう感じの動きで今となっては相当遅いし、フルサイズでも相当コンパクトになってきた近時、もうこれはないでしょうってくらいの小さなセンサーで、常にパンフォーカスなんですが、ライカで街を撮るときも結局F11ぐらいまで絞って、マニュアルでフォーカスしているわけですし、写真屋さんのスキャンの画像ファイルなんて1メガもないので、結局これでいいんじゃないかという、なんでしょう、達観したというか、悟りが開けたというか、諦めがついたというか、そんな心境であります。

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この小ささ、軽さ、そして、設定がややこしすぎないというか、機能が豊富ではないというか、ハッキリいえば貧困なので、逆にいうとあまり色々悩まずにシャッターを押せるというのが良いのかもしれません。これがフジのX100Vとかだと、ファインダーにするかOVFにするかEVFにするか、それとも背面液晶で撮るか、背面液晶はチルトさせるか?画質モードも十種類くらいあるけど、どれにします?白黒?アクロスにする?カラーフォルター効果かけてみる?ってか画角もクロップして50ミリでも撮れるわよ、どうする?どうする?ってカメラが色々話しかけてくるので、おちおち写真も撮ってられないという矛盾した状況に追い込まれてしまうわけです。

まさに「ハムレット」の「since brevity is the soul of wit. And tediousness is limb」(簡潔こそ知恵の魂。さすれば、冗長は手か足のようなものでございます)ということですか。

ところで、こんど「GRIIIx」っていうのが発売されるのね。換算焦点距離40mmのレンズ積んだやつ。「GRは28ミリだろっ」とか、「なんだかフジのクラッセみたいになってきたな」っていう気もしますが・・・興味あります。

きっと機能てんこ盛りなために使いにくいというこの「逆説」に正面から向き合うことになるんだろうとは思うけど、買っちゃいそう。。

そのときには、寝てるときに話しかけて「黙認」をもらうことにしようと思います。