しまりす写真館の現像室から

カラーネガフィルムでユルめに写真を撮っています

RICOH GRIIIx: 鎌倉アジサイ卍固め、そして錦糸町ブルース

RICOH GRIIIx

なんとなく、頭がパンパンである…脳みその容量って、歳をとると減るのだろうか。一度にいろいろなことを考えるのがすっかり苦手な今日この頃である。なので、カメラを持ってどこに行けば良いのかもよくわからないし、考えられない。そのうち、カメラを持ってどこにいるのかがわからなくなりそうだ。

こんな日は軽いコンデジ一台で、軽く散歩をするのが良い。

しかし、頭の中がパンパンで思考できないので、気がついたらペンタックスSPもカバンに入れていた。

錦糸町の駅を降りるといつもどおり、北に向かって歩き出す。写真は順光でなければ写らないから。そのことはアラーキーの著作を種々読んで、学んだ。

もっとも、気の向くまま、足の向くままに角を曲がっているうちにどの方向に向かって歩いているか、わからなくなることも多い。

しばらく歩いていると、腹が減ってきて、朝からモヤモヤしていた胃が軽くなってくる。腹が減ったからといって、ここでラーメンなんか食べたら最悪な結果になる事は分かっている。

歩いているうちにカメラバックが痩せた左肩に程よく食い込んで、馴染んで軽くなってくる。ここはどこ?墨田区横川2丁目だ。

曳舟高木神社の斜め向かいに「みやこ」との小さな小料理屋あり。ご迷惑でなければ今度ふらりとよさせてほしい。夏の暑い日の夕方早い時間に。きりりと冷えたビールを小ぶりの江戸切子の青いグラスで、飲ませてほしい。

地下鉄で一駅、錦糸町まで帰って、居酒屋に入る。生ビール、そして壁に貼られたメニューの中でふと目についたゲソの天ぷら。テレビの東京競馬場は第11レースの真っ最中。1等テリオスベル単勝54.4倍だって?

他所の街で初めて入る居酒屋というのは不思議なもので、暖簾をくぐる前は少し緊張するが、入ってしまうと妙に馴染む。きっと誰も知ってる人に会う気遣いがないからだろう。生ビールを飲むと先ほどまで少しくキリリと痛んでいた胃袋がなぜかおとなしくなった。

土曜日の午後、店には行くところもなさそうな中年、初老の男たち。一人一人ビニール幕で区切られたスペースに大人しく収まって、静かに自分の酒を飲んでいる。

いずれにしてもゲソの天ぷらは次はないでしょう。次にこの店に来ることがあったなら、やはりアジフライだ。

カウンターの中の給仕さんたちは外国語で歓談中だ。僕らの話相手は、それぞれ自分のスマホだけ。つまるところこれが、僕たちが結局行き着いた、僕らの21世紀の世界なのだ。

いずれにせよ、地方競馬もなかなか面白そうだ。なにしろオッズが景気がいい。中央競馬では単勝で50倍なんて、ないからね〜。

明日G1、あるのかな。ゲフ。

「おねーさんすみません、ホッピーのシロ。それとねー、ネギマとねー…」

以下、記憶消滅。

Nikon F: 「夏の闇」再読

Nikon F + Nikkor H Auto 50mmF2.0 + Kodak Tri-X

50年前。まだ小学校に上がるか、上がらないか、そんな頃に2年足らずの間、過ごした小さな海街を訪れました。

地方都市といっても、いろいろだと思いますが、何も観光資源がないということになると、仕事がないから人もいなくなるし、店も無くなるし、電車もバスもタクシーも無くなって、こりゃあ不便っていったら極まりないわけです。

何故この街を訪れたのかというと、一種の法事と言いますか、故人の墓参りという目的であったのですが、墓石洗って、線香あげて、お坊さんにお経あげてもらって、さて、おつとめあけのビールでも・・・ってかんじんの居酒屋がない!

駅前に一軒だけ営業してそうな焼肉屋を見つけたので、砂漠の真ん中でオアシスを見つけた人のように駆け寄ってみると「当面ランチの営業は自粛です」と張り紙が・・・って、もうこうなったら国道沿いで一軒だけ見つけたコンビニで焼酎とスルメでも買って無人駅のベンチで飲むかって、それもなんだか「世捨て人」すぎるんで、結局1時間に一本の電車を待って、何駅か移動して、多少人通りのある市街地まで遠征(?)したんですが、そこで店開けてるのも結局、まんまるとか磯丸とか、これって西新宿のマップカメラの前あたりにもあるでしょっていう安居酒屋チェーンのお店だけなんですよね。

いや日本は狭くなりました、どこまでいってもおんなじコンビニ、おんなじ居酒屋、売ってるものも出してる食べ物もおんなじおんなじの、金太郎飴みたいな国になったような気がする。逆に本物の「金太郎あめ」の方を最近あまり見なくなった気もするけど。

でも、最終的には親戚の男と2人でめちゃ盛り上がって、ウィンナーの串揚げとか腹一杯食べて、角ハイボールがぶがぶ飲んで、帰りの電車に乗りました。

しかし、こうして縁もゆかりもないっていうか、いやあるある、あったんですが、半世紀近くにわたってこっちは振りかえりも見向きもしなかった土地でも、知っている人で現存している人は誰もいなくなったような土地でも、こうして電車を降りて、誰もいない駅前のひび割れだらけになったアスファルトの上に立つと、なにかがずっとここで私が帰ってくるのを待っていたんじゃないか、っていうことを感じるのは、これは気のせい、年のせいなのでしょうか。

こんなちょっとばかし「センチメンタルな旅」に連れていくのは、やっぱりデジタルじゃダメで、フィルムカメラに限ります。

今回、荷物も多いし、ちょうどおろしたてのGR3xをシェイクダウンがてらに持ち出そうと思ってたんですけど、朝、家を出る直前に思い直して、50ミリ付きのニコンFとTri-Xを3本カメラバッグに入れたのでした。レンズは、28ミリもあったほうがいいかなとは思いましたが、「旅にはカメラ一台、レンズは一本がお約束」という渡辺さとる氏の名著「旅するカメラ」の至言を思い出して、やめにしました。

フィルムカメラが旅に良いところは、なんと言っても、「旅をしている間は撮った写真を見ることができない」、という点に尽きると思います。旅をしながらデジタルカメラで撮った写真を確認しだすと、ほんの数秒前に見たもの、知ったことを追認、再確認し、自分の知ってるイメージに合わせようと編集し、気に入ったものだけ保存するという一種の「作業」に変わってしまうのですよね。新しいもの、知らないものの発見とか、出会いに価値があるはずの、「旅」の本来の趣旨が変形してしまうような気がするので、やはり「旅」にはフィルムカメラが合目的的に合致するのである。

「私はベッドに腰をおろしてウォッカをすすりつつ黄色い川に輪がひろがってはきえ、消えてはあらわれるのを眺めた。ずっと見つめているとやがて無数の菌糸が消えて、たった一滴の雨が降っているように見えてくる。」

開高健「夏の闇」(直筆原稿縮刷版 新潮社)より

ウォッカの酔いになぶられながら、セーヌの川面に反射する光のかけらを、ぽうっと眺めている、この主人公と一瞬のあいだ、同体化している感覚。その感覚を求めているのなら、やはり私は、フィルムカメラこそ、そのような旅の伴侶としてふさわしい、とそのように思うのである。

Leica M6:つゆのあとさき

Leica M6 + Summicron 35mm 第二世代 + Kodak Portra160

今日はM6の中のコダックポートラを撮り切りました。久しぶりに日頃足を伸ばさないあたりに足を伸ばしてみると、いやはや、あちこちのお屋敷が取り壊されて更地になっていたり、日頃撮り慣れていた風景も、どんどんと変わっていくことに改めて気がつきました。

この辺りもこまめに撮っておかないと、あと10年もしたら、どんな風景になっていることやら、全く油断はできない。

この辺りはかつて岩崎弥太郎のような経済人や政治家、そしていわゆる文人墨客の類の人たちがお屋敷を構えたあたりである。そういう意味では、ある意味はなもちならないというか、反革命的というか、反市民的というかなんというか・・・そう、「貴族的」なのだ。

しかし、今や全面的に民主主義化したこの国において、この街もけして無傷でいることはできない。革命的かつ民主主義的世間様のチカラで、全ての反民主主義勢力、とりわけ労働の苦しみとは無縁な貴族どもがのんびり風月水墨を愛でたような、非生産的かつ耐震構造も満たしていない危険極まりない反市民的建築物は、市民主義、民主主義という名のブルドーザで一気に革命化してしまうのである。

このところ、戦前〜戦後に活躍したある作家が住んでいた和洋折衷のお屋敷が売りに出されているが、なかなか買い手がつかない、という話を何かで読んで知ってはいましたが、この日何気なく路地の奥を覗いてみると、売るとか売らないとか、買うとか買えないとかグダグダ言ってるのは効率的な資本主義運営の観点からしてこれはまさに全くの無意味、非生産的極まりないということになったのか、さらっと更地にされておりました。

ところで、最近私が凝っているのが永井荷風の小説、そしてペンタックスなのです。ペンタックスといえど、近ごろ噂の「本気」のデジタル一眼レフではありません・・・もともと近所のカメラ屋さんにて譲っていただいたフイルム一眼レフのSL(28ミリのスーパータクマー付き)を持っているのですが、本日M6で撮り切ったカラーネガの現像をお願いに行ったところ、「そういえば、ダンナ、こんなのもありますよ・・」と囁かれ・・・

またやっちまいました・・・奥が先住のSL、手前が新入りのSPです。

来日したポール・マッカートニーも、フォン・カラヤンも、買い求めたというSP、前から欲しいと思って物色はしていたのですが、ネットの中古カメラ屋さん情報では結構法外なお値段がつけられているので、「ま、SLでいっか。いまどき絞込み測光方式の露出計なんて使わないし・・・」と、「酸っぱいブドウ」していたのですが、コダックの35ミリポジフィルム1本よりもお安いお値段設定をされてしまっては、これはもう悩むいとまもなく即決で我が家にお迎え。

まだフィルム通してのシェイクダウンはこれからですが、楽しみです。

久しぶりにM6を持ち出しましたが、いいですね。このカメラとレンズが最初に買った私のmy first Leica。その後色々と手を出してしまいましたが、結局は最初に「正解」を出していたんだな・・・と、改めて感じました。

90年代〜2000年代のライカブームの頃M6は「現行機種」というのが仇になって「つまんねー奴」扱いされていたようですが、気がつけばあれから四半世紀が経過して、ちょうど1990年代におけるM4とか、M5的な立ち位置になってきたというか、今や立派なクラシック。

考えてみれば、M5だって現行機種のうちは、「デカすぎ」「弁当箱」「ライカじゃない」とか言われて散々だったけど、M6の時代になると、「追針式の露出系が使いやすい!」「ファインダーを除いたままシャッターダイヤルを人差し指一本で回せる!」「大柄なボディは大口径レンズとのバランスも絶妙だ」「最後のウェツラー製」・・・と言った具合に絶賛の嵐になったというわけなので、カメラも、人間も、現役を終えてからその真価が理解されるということになるのでしょうか。

 

Ricoh GR3x: 正法眼蔵の覚書き

Ricoh GR3x

迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり

(「正法眼蔵 現成公案の巻」(道元)より

思うに、デジタルカメラの写真は、生もの、である。すぐに刺身にして食べてしまわなければならない採れたての魚と同じである。残しておいてあとで食おうとか、保存しようなどと考えてはいけない。じゃんじゃん撮って、共有して、そして忘れるのだ。水が流れるように撮り続け、そして流すのだ、ざあざあと。誰も覚えてはいないだろう。正直なところ、撮った本人も覚えてないのだし。

ここ何年か、「縦位置」の写真って「あざとい」感じがして、特にライカでは横位置で撮ることを自分に課しておりました。ひとつには。「縦位置」の写真をこのブログに載せると、写真全体がマックの横長のスクリーンに表示されないという理由もありました。しかし、最近ふとしたきっかけで縦位置で撮った写真をフォトショップで2枚並べて貼り合わせるという技を覚えた。これならマックのスクリーンにも全体が表示される。

と、いうことで、久しぶりに「縦位置」をじぶんに解放したところ、いやいや撮れるとれる、なんでも面白そうに見えてきて、もうデータの整理が追いつかないくらいに撮れてしまいます。

2009年に初めてデジイチ買って写真撮り始めたのですが、その年の暮れにニコンニューFM2を買ってフィルムでの撮影を始めました。当時確かTri-Xが四百円くらいだった様な気がします。その後フィルム代、現像代が惜しくなってきて、Sony NEX-7でデジタルに復帰。しかし、NEXの画像が何故か目に痛いというか、人工的に感じることがあって、ふとしたはずみに2015年頃にまたフィルム撮影にい戻り、露出計の壊れたPen-Dを使う様になってからマニュアルで露出を合わせるというワザを覚えて、憧れのライカに手を出したこともあり、その後ずっとフィルムでの撮影がほとんど、年間100本のフィルムを消費した時期もありました。

しかし、最近またデジタルに戻りつつあります。フィルム1本1,500円越えの世界になってくると、さすがに立ち止まって考える様になったということもありますが、コロナ禍の只中に、物欲にのみこまれるように導入したフジフイルムのXシリーズの3台(!)のボディーを、今さらながらに使い始めて、気がついたんです。

今のデジタルカメラの画像っていち時期のぎこちなさの様なものを、感じなくなりました。実にナチュラルというか、とにかく違和感がない。現行機種のX-T4やX100Vのフィルムシミュレーションを使えば、フィルムで撮ってスキャンした画像のありがたみは、殆ど無効化されてしまうように思います。これが技術の進化というやつでしょうか。

ただ、デジタルで撮った画像がなぜか記憶に残らないという点は、やはり依然として変わらない様に思います。かつて居酒屋で仲間と酒を酌み交わしながら話したり、聞いたりしたことのなかに何年経っても忘れられないことがあるのに対して、オンライン飲みの場合、誰と何を話したのか、全くきれいさっぱりと忘れるように思うのですが、あれと同じような理屈かな?

撮影散歩の シメはハイボール

と、いうわけでございまして、私、GR3xにて、再びGRユーザーの世界に舞い戻って参りました。。今回アップロードする写真は全部GR3xにてシェイクダウン、「ポジフィルム調」にてJpeg撮って出しです。

しかし新しいGR3x正直いって、綺麗に写りすぎる・・この頃、すっかり運動不足か、はたまた酒の飲みすぎか?とにかく高止まりとなった自分の血圧が気になる私としては、運動がわりに早足でのお散歩をしているのだが、ここで高性能のカメラを持っていると、お散歩モードが容易に撮影モードに切り替わってしまい、歩行はそっちのけで、有酸素運動も忘れて、手振れ防止のために息を止めて、無酸素状態でシャッターボタンを押している自分がいるのであった。。

ということで、健康維持が主たる目的のお散歩にベストなカメラはこの、2008年発売のデジカメ、リコーのGX200である。

いや、とはいえRAWで撮ってLightroomで現像したら・・10年前のCCDとはいえ、全く侮れないのである!

Ricoh GX200

何はさておき、GR3xを購入の西新宿Mカメラの店頭にて、いつものグレーの手提げ袋に入れていただいたGR3xを片手に提げての帰りぎわに、フジの33ミリを見つけ、これまた店頭におかれておりましたX-T4のボディにつけてみた。

なにこれすげーいいじゃない!?ボディとのバランスもいいし、オートフォーカス速いし、静か!

と、いうことで、今月は厳しいのですけど、来月あたり33ミリF1.4逝っちゃってる様な気がします・・。

 

 

 

Fujifilm X-E2:雨の三連休最終日

Fujifilm X-T4 * XF 16 - 80mm F4.0

今一つお天気にめぐまれなかった連休の前半三日間であった。競馬も負けたし、パッとしない日曜日の夜である。

さて、私の愛するデジタルカメラとして、今、2台ほど選ぶとすれば、それはリコーGR DIGITAL IIIと、Fujifilm X-E2である。その理由といたしましては、大きさと重さのバランスがよいこと、お安いこと、JPEGで良い絵が出てくるということ、この3点です。

一昨年の暮れに入手のライカMも良いカメラだと思う。思うのですが、中古にも拘らずの驚きのお値段をかんがえると、気軽に持ち出して日常遣いができない貧乏症の私なのである。

私にとってなんといっても最も大切なのが、手にした時の大きさと重さのバランスです。特に大きさの割に軽く感じるカメラは結局使わなくなってしまう。その点からすると、フジのX-E2とGRDIIIはベストなのです。そして、GRDIIIは購入から14年経って残存価値は限りなくゼロにちかい。X-E2は2020年の秋に中古の備品を2万円台で購入。どちらも気軽に持ち出してバシバシとシャッターを切れるお手軽カメラなのである。

Fujifilm X-E2 + XF35mmF1.4 + Film Simulation ProNega Standard

と、いうことで、今更のように手持ちのXシリーズのボディ3台を改めて使いだした今日この頃、実はXシリーズのボディを制御する上での「キモ」である「Q(クイックメニュー)」ボタンの使い方、いまさらながらに使用説明書を引っ張り出して熟読のうえ、ようやく理解することができました。あらかじめ「カスタム登録/編集」の画面で設定を登録しておかないとならないのね。Qボタンを押して表示されるタイル状のメニュー状で設定を変更したらそのまま記憶されるものだと思い込んでいたので、なんでこのカメラ、設定した内容を忘れちゃうのかな、不良品かな、とずっと思ってました。。

X-Proシリーズは私にとって憧れのカメラであり、実際Pro-1は新品を、Pro-2も中古ではあったけど入手してしばらく使ったのですが、どうも大きさの割に軽い感じがしてしまって、手に馴染まなかったのでした。でも、Pro-3も欲しいな〜このカメラを使いこなして決定的瞬間を射止めたら気持ちいいだろうな〜と夢想しながら、X-Pro2を手放した時のことを思い出して、物欲を制御しています。

「夜が明けたら いちばん早い汽車に乗るから 切符を用意してちょうだい いつだって身軽な わたしじゃない 夜が明けたら」

(浅川マキ「Long Good-Bye」所収「夜が明けたら」より)

ハイブリッドファインダーも結局EVFしか使わないのであれば、実はX-Eシリーズでじゅうぶんなはずなのだ。特にX-E2はX-E1よりは洗練されているし、X-E3のように小柄すぎず、X-E4よりも遥かにお安い、ということで、個人的には、Xシリーズカメラの中では今もっともおすすめな一台になるのではないかと考えています。

私はX-E2にはXF35mmF1.4を合わせて使っているのですが、このレンズはオートフォーカスは遅いものと割り切ってしまえるので、現行機に比較すると少しスローな動作も「スローなブギにしてくれ」っていう感じで、許してしまえます。なんならマニュアルフォーカスモードにしてしまっても良いし、アイセンサーも反応が遅いのが気になるなら、EVFオンリーにして常時EVFつけっぱにしておけば、ファインダー表示のタイムラグの問題も解消。電池の減りが早ければ、キタムラで中古の予備バッテリーを買えばよし。欠点は工夫で補ってとにかく写真撮りまくれ〜みたいな使い方にはちょうど良いボディだと思うのですよね。「プチっ」という感じのシャッター音も正直なところあまり高級感はないが、このボディばかり使っていれば、だんだん慣れてきて「これはこれでアリ」と思えるレベルだ。

Fujifilm X100V

X-E2のことを褒めながらも、今日は強く雨が降り出したので、防塵防滴のX100Vを使用。アクロスモードで、粒状性をいじっているのですが、こうすると書き込みにちょっと時間がかかる。でもそのぶん、なんだかありがたい様な感じのする画像が出来上がるのでした。

本当に最近のデジカメって、よくできてますよね〜。

Long Good-bye

Long Good-bye

  • アーティスト:浅川マキ
  • ユニバーサル ミュージック (e)
Amazon

 

Leica M3とエルマーで「記号論講義」を考える

「デジタル記号のシステムによって導入されるのは、じつは記号の合成によるシミュレーションという出来事です。」

石田英敬記号論講義 日常生活批判のためのレッスン」ちくま学芸文庫 第11章

「ヴァーチャルについてのレッスン」より)

f:id:Untitledtrueman:20220417062540j:plain

Leica M3 Double Stroke + Elmar 50mm F3.5 + Acros 100

よく晴れた日曜日の日中に、近所のお宅の桜の木を撮らせていただく。なんだか昭和20年代の映画のワン・シーンふうになりました。

ここのところ、いつも東京まで出かけていって、街の様子や、縁もゆかりもない住宅地の様子を撮ることが多かったのですが、慣れ親しんだ静かで身近な風景を撮るのも悪くないな、と久しぶりに感じました。

この日は初夏を思わせるような澄んだ空気で、少し風があって、Elmarの調子も上々です。

f:id:Untitledtrueman:20220417062915j:plain

フィルム代も捻出しないとならないし、置き場もなくなってきたしで、とめどもなく増殖しているカメラを少し整理しようかなと考えだして、その第一候補が2台のM3のどっちかかな、と考えていたのですが、50ミリのレンズにはやっぱりM3のファインダーが一番しっくりきます。それに、このダブルストロークも若干まき上げの挙動があやしいときがあるので・・・やはり両方ともキープかな。。

f:id:Untitledtrueman:20220417102132j:plain

Elmarがいいのか、富士のアクロスが優秀なのか、それとも撮影者の腕がいいのか(笑)、あるいは単なる気のせいなのか、石灯籠が実に透明感のある描写で描かれています。写真屋さんのスキャンの腕がいいのかも。

下はお寺の手水鉢の中に生けられていたお花を写したのですが、こちらも実に透明感がある様に感じます。

f:id:Untitledtrueman:20220417213844j:plain

ようやく「記号論講義」という本を読了しました。600ページもある文庫本だったのですが、11のシャプターにわかれていて、それぞれが一つの評論として完結しているので、結構読みやすかったですし、実に色々と示唆のある内容で、何度か風呂で湯の中に落としそうになりながらも、無事、最後まで読み通すことができました。文庫本にしては高価(1700円+税)なので、風呂の中に落としたりしたら、心的ダメージがハンパないです。

「アナログのカメラによって撮影された写真をスキャナーで取り込み、コンピュータで画像処理する場合のことを考えてみましょう。アナログ写真に映った被写体の像という図像記号は、コンピュータに取り込まれたときから画素のマス目によって合成(synthesize)された像として、指向対象との結びつきを失うことになります。」

石田英敬記号論講義 日常生活批判のためのレッスン」ちくま学芸文庫 第11章

「ヴァーチャルについてのレッスン」より)

そうであるとすると、今回ここに貼り付けた様に一度スキャンされてデジタル化された画像は既に「指向対象との結びつきを失った」像である、ということが言える。逆にいえば、スキャンする前のフィルムに焼き付けられた像や、スキャンせずにフィルムから直接プリントしたものは、「指向対象との結びつき」を失っていないということになるのか。仮にこれが居酒屋のメニューであったとして、お店の人から「指向対象との結びつきなし」と「あり」と、どちらになさいますか?と、いう問いかけであったとすると、「あり」の方が断然、なんとなくありがたいと感じるのは、私という存在が依然として前近代に留まっているからに過ぎないのであろうか。

フィルムで撮った写真、今度は紙に焼いてもらおうかな。でもそれをこのブログに載せるためには紙に焼いたものをスキャンしないとならないから、結局、「指向対象との結びつき」を失ってしまうんじゃないのかな。つまり、このようにコンピュータ技術を使用したインターネット上の行為にならざるを得ない限りは結局のところ「指向対象との結びつき」を失ったものになるであろうということはあらかじめ予言されているということか。しかし、年明けの「あけおめ」をLINEで友達に送り、大晦日紅白歌合戦を地デジで観るという今日の私たちの生活の9割以上がコンピュータ技術を使用したインターネット上の行為に満たされているという状況にあるわけであるから、既に私の社会生活全体が「指向対象との結びつき」を失ったものになっているということなのかもしれないが、これはまさに、つまり、1980年代における「北斗の拳」の主人公ケンシローが放ったあの名言:「お前は既に死んでいる」ということなのか・・・

そんなことを延々とぐるぐる考えるきっかけになるという意味で、実に面白い本でした。最後まで読みとおした結果、宇多田ヒカルの20年前のデビューアルバムを初めて聴くことにもなりましたし。

Rollei 35se: 東京という「都市」の中心で

「この都市は表意文字である。文章(テクスト)はとだえることがない。」

ロラン・バルト「表徴の帝国」中心ー都市 空虚の中心 より)

f:id:Untitledtrueman:20220411011958j:plain

Rollei 35SE + Sonnar 40mmF2.8 + Fujicolor 100

知り合いの方からこのローライ35SEをいただいた。皮のケースに包まれた状態でかなりの時間が経過していたようで、2分の1秒はきれなくなってしまっているが、15分の1秒以上は切れるので、スナップ撮影にはなんの支障もない。とはいえ、長い時間を経て再び光を通したレンズで撮った写真を見ているいると何か不思議な気持ちになるのだ。

f:id:Untitledtrueman:20220411012636j:plain

f:id:Untitledtrueman:20220411072529j:plain

千鳥ヶ淵を歩いたのはたぶん30年ぶりぐらいだ。いつも、人が集まるところに人が集まる時期には行かない様にしているのだけど、久しぶりに東京の中心を見ておきたくなって、この小さなカメラと、デジタルライカを持って皇居の周りを一周、歩いてみた。

デジタルの方ではなかなか気に入った写真は撮れなかったのですが、F5.6で、逆光で歩きながら適当に目測で撮ったこの一枚だけ気に入ったので、貼り付けておきます。

f:id:Untitledtrueman:20220411013202j:plain

Leica M + Summilux 50mm

咲き始めてから急に冷え込んだりしたせいか、いつもよりも少しばかり長い間楽しませてくれたように思う東京の桜も、今週あたりで散りさってしまいそうです。