しまりす写真館の現像室から

カラーネガフィルムでユルめに写真を撮っています

Nikon Fever: 新宿の西、中野の北

Nikon F3 + Ai-S Nikkor 35mmF2.8 + Fujicolor 100

新宿の西、中野の北のあたりを歩いている。先日は新井薬師から新江古田の駅まで、ジグザグに住宅地の中を歩いた。一種独特の存在感を感じさせる、不思議な区域である。太田区や世田谷区のような雰囲気とは異なり、さりとて練馬区板橋区のような感じもない。ある意味で真の都会の居住区域といえば言えるのかもしれない、適切な言い方かどうかわからないけど、都市の真空、という気がするのだ。

なぜ私がそんなにこの新宿区、中野区のあたりに今興味を持っているのかというと、別に特段の興味があるわけではなくて、新宿のMカメラに稼働機会の少ないカメラを売りに持っていくと、見積もりが出来上がるまでに2〜3時間かかるので、その間に撮り歩いてまた新宿に戻って来れるあたり、ということで、この周辺がちょうど良いのだ、というのに過ぎなかったりするのである。

これほどまでにフィルムの価格が高騰してくると、やはり、さすがに、一時期のようにチャカチャカとシャッターを押す気力はない。3〜4時間ほど歩いて、フィルム一本撮り切るかどうか、という程度である。とすれば、実際問題としてフィルムを通して、使えるカメラも限られてくるというわけである。

と、いうことで、私今、断捨離モードです。

2009年の発売直後に買ったGRD3を売ったところ、結構なお値段がついたのには驚いた。これ確か数年前にも手放そうかな、と思ったんだけど、その時に調べた時はMカメラのワンプライス買取価格が5000円程度ような気がするんだけど・・・。

やはり半導体不足のせいなのであろうか。世の中いったいどうなるやらわからないものである。まさに一寸先は闇である。これが漱石の「吾輩は猫である」の苦釈弥先生の言う、many a slip 'twist the cup and the lipと言うやつなのであろうか。

くわばらくわばら。

Nikon EM + Ai-S Nikkor 50mmF1.4 + Fujicolor 100

さて、先日お引き取りしたNikon F3である。手持ちのレンズは50mmF1.4のみ。街撮りでは少々狭いな、って言うことで35ミリを物色したのだけど、意外にもマニュアルのAi-Sレンズって中古品が少なくなってきている気がする。予算も限られているしで少々後玉に難ありの一品をやむなく購入。

「後玉に拭き傷あり」は了承の上だったのではあるのだが、家に持ち帰って再確認すると、いやこれかなりのフキ傷っすよ・・・逆光でかなりのゴーストが出るのは、やっぱりこのフキ傷のせいなのかな。

ま、順光なら気にならないし、やはり電子制御の絞り優先自動露出は、楽なのだ。F3はスポット測光に近いみたいで、露出の合わせ方にまだ慣れてないけど、ネット上のマニュアルのPDF読んでAEロックのやり方も覚えたし、徐々に手に馴染んでくるはず、である。

Ricoh GRIIIx: 北新宿の母、南新宿の父

新宿 2023

日々、色々なものがそれと気がつくことなしに消えていくのだけど、公衆電話もそんなものの一つかもしれません。あの、分厚い電話帳も。僕の記憶が間違っていなければ、この電話機が置いてある棚の下のスペースは、確か、電話帳が置いてあったように思うんだけど、勘違いかな。スゴイな。今考えたらそれって個人情報ダダ漏れ、っていうことになりそうな気もするけど、まあいいのか。昔のことだし。

リコーGRIIIxのファームウェアをインストールしたら、「ネガフィルム調」という新しいメニューができた。フィルムシミュレーション?アートフィルター?「ポジフィルム調」っていうのがけっこうそれっぽく写るので気に入っていたんだけど、若干アクが強すぎる気がする時もあり、これはスッキリとニュートラルな感じに映るので、気分転換にちょうどいい。

もう一つ、電源オフ時にトータルショット数が表示されるようになったのですが、俺のGRまだ1500カットしか撮っていなかった。。

いいカメラなんだから、もっと使ってあげないとな〜。

西新宿のカメラ屋さんで、デジタルカメラを一台買い取ってもらった。中古で買ったものなのだけど、昨今の半導体不足のせい?か、2年前に中古で買ったものだったのに、買った時と同じくらいの値段で買い取ってもらえた。

今、私、断捨離モードです。

と言いながら、一台売ったその足でなぜかまた新たに一台買ってしまったという・・・。いったい何やってんだ!自分。

そんなこんなで、一台手放して軽くなるはずが、売ったのよりもでかいカメラを買ったせいで却って重くなってしまったDOMKEを担いで、新宿から北新宿を抜けて、散歩。高層ビルが立ち並ぶ大都会と、庶民的な住宅街がせめぎ合っているという、何とも味わい深い一角である。EMに入っていたネガフィルムを取り切って、GRIIIxに持ち替え、スナップ続行。新井薬師の駅までたどり着いたところで、西武新宿線で新宿に戻り、「DUG」でジントニック。いつものことだけど、客が多すぎて少々落ち着かない。

まあ、いいか。2杯目にバーボンのハイボールを飲み干して、そそくさと店を出て、駅に向かう。

ああ今日もいい1日だった。憧れのニコンF3も手に入れたし。こいつはなかなか調子が良さそうだ。まだフィルム現像してないからわからないけど、190万台だから後期型の、そこそこ新しいもののはずだ。

Ricoh GRIIIx + ネガフィルム調

来週は新井薬師から歩き出すことにして、さて、どこに行こうかな。

Nikon S2 & EM: 新橋、ホッピー、そして世界の「画角」についての考察。

Nikon S2 + Nikkor 50mmF1.4 + Acros 100

 

「神よ。我に50ミリのレンズを与えたまえ。」

新橋のやきとんやでホッピーを酌み交わしながら、僕の古い友達がいった。

「おもいかえすに、僕は、あたりのいろいろなものごとを、ひとつひとつ、一人一人の対象の、ごく一部を視認し、切り取られた小さな断片的なイメージを繋ぎ合わせて、世界全体を理解しようとしてきだのだ。

135ミリぐらいの望遠レンズ一本で、ドキュメンタリーを撮ることを想像してみてほしい。そうすれば、それがいかに不自由で、不自然な努力であるか、君なら想像がつくだろう?もちろん、世界の全体像を認識して確認し、理解するというその作業には、とうぜん、とても時間がかかることになった。そのようにして撮り集めた断片的なイメージを結合し、統合する過程では、僕が意図するとしないとにかかわらず、不可避的に、勘違いや思い込み、誤解、早合点、つなぎ合わされなかったもの、重複して覆い隠されてしまった、あるいはご都合で省略されてしまったもの、意図的に忘却されたものなどなどが生じることになった。その結果、僕が把握するに至った世界は、粉々に叩き割られたステンドグラスの聖母像を慌てて繋ぎ合わせたように不完全でいびつなものになってしまったのだ。しかし、僕はそれこそがこの世界であると信じるほかなかった。それ以外のオプションはなかったから。」

「そう、『それ以外のオプションはない』という状況に置かれた時には、人間たちは大抵のことはできてしまうのだ。いかなる過ち、どんなに愚かしいこと、後から振り返ってみれば、そのような明らかに誤った行為をなぜやってしまったのかというようなこと、何十万人という人々を計画的に、あるいは一瞬で、殺戮することも『それ以外のオプションはない』という正当化を与えられたとき、人間たちは罪悪感を感じることも、思索を巡らすこともなく、機械的にそれをすることができる。そこには、『思いやり』も、『よりそって』も、『絆』もないんだよ。」

「ねえ、君はあまりにシニカルにすぎるよ。」

「そうかな。でも僕はそう思うんだ。ああ、もしも僕が、もっと人生の始まりの段階で、28ミリくらいの広角レンズを与えられていたならば・・・世界はずっと違って見えるだろう。そして、世界を理解するのにこんなに時間はかからなかったはずだ。

しかし、今更そんなことを言っても仕方がない。

僕はこれからもこの砕け散ったモザイクの世界を生きていくことだろう。そして、視野の狭い望遠レンズで除いた世界の断片を、誤謬と偏見に満ちた僕の思想で繋ぎ合わせ、救いようもなく歪んだ世界観を作り続けていくのだろう。

それは、やむを得ないことなのだ。

僕が唯一、望みたいこと。28ミリとは言わない。35ミリでなくてもいい。今更遅いかもしれないけれど、もう少し広い画角が欲しかった。せめて50ミリくらいの画角で、お願いできませんか。」

そう言って、友はホッピーのジョッキを空にした。「すみませーん、お兄さん、ホッピーの白の中、お願いします〜」

Nikon EM + Nikon Series E28mmF2.8 + Kodak Gold200

僕の憧れのブランドは、なんだかんだと言って、ニコンである。だから、結構高かったけれど、Z9を特集したMook本も買ってしまった。しかし「ブランドとして憧れている」ということと「道具として手に馴染む」ということは少し違うのかもしれない。FM2もF2も使っていたのだけど、結局二束三文で手放してしまった。でも、そうであるにもかかわらず、数ヶ月後には結局Fの初期型を買い戻し、S2を衝動買いしたりしていて、目下のお気に入りは、5年ほど前に銀座の教会の8階にあるカメラ屋にて、冷たい秋雨の降る日曜日の午後早い時間から飲み始めて酔った勢いで購入した、このNikon EMである。小くて手に実によく馴染むし、今頃の時期には金属ボディのように冷たくないプラボディが優しいのだけれど、同じく中古で手に入れたEシリーズの28ミリレンズは絞りの情報がうまくボディ側に伝わらないのか、露出制御が効かない。それでしばらく放置していたのだけど、最近買い戻したAi-Sの50ミリレンズを使うときちんと自動露出制御が機能しているようだ。

「一つのことが終わると、もうどこか別のところに行きたくなるのです。どうしてもです。」(「ダイアン・アーバス作品集」より)

昨年末に近所の古本屋さんで見つけたダイアン・アーバスの写真集、いいお値段だったけれど、結局買ってしまった。1973年6月に西武百貨店で開催された写真展の際に出版されたもののようだけど、所々に税関職員によって黒マジックで墨入れをされている、このような写真集を、百貨店が企画出版していたということがかえすがえすも驚くべきことだと私は思うのである。冒頭のアーバスの写真に関する記述がいい。

「より個別的、特徴的であろうとすれば、それだけ、より普遍的になるのです」

「知っておかねばならない大切なことは、自分は何も知らないということ、自分はいつも手さぐりで歩いているということです。」

一体、いつの間に僕らは言葉を失ってしまったのだろう。自らを表現し、あるいは友に語りかける言葉を。すごく大切なことを僕たちは諦めてしまったのではないのか。それ以外にオプションがなかったということなのかもしれないけれど。

 

 

 

ハロー、マイ・ネーム・イズ・ケン・オカ


ハロー、マイ・ネーム・イズ・ビル・ブラウン

ハウ・ドゥー・ユー・ドウー

ハウ・ドゥー・ユー・ドゥー

ジス・イズ・ア・スクール

ザット・イズ・ア・ホール

イズ・ジス・ア・パーク?

エス・イット・イズ

ウワット・イズ・ジス?

イッツ・ア・チャーチ

中学校一年生の時に使っていた英語の教科書の最初のチャプター。確かこんな感じだったように記憶している。

知り合いの方のご家族が亡くなった時、僕らは「ご愁傷様です。」と言い、「ご冥福をお祈りします。」と言う。ところで「愁傷」って、どういう意味なのか。「冥福」とはなぜ「冥福」なのか。「愁」とは「悲しい」ということである。「傷」とは怪我などをして傷ついた部分である。そうすると、親族を亡くした悲しみによって傷ついた部分を「愁傷」と言い、これに「ご飯」の「ご」と「王様」の「様」をつけて奉った感じにするのが「ご愁傷様」なのか。では「ご愁傷様です」という時、いったい何・誰が「ご愁傷様」なのか。死んだ本人なのか。それとも目の前にいる故人の家族なのか。なぜ「あなたはご愁傷様です」もしくは「お亡くなりになった方はご愁傷様です」とは言わないのか。もしかすると「私は御愁傷様である」と威張っているのか。結局のところ、「ご愁傷様です」と我々が口にするとき、それは具体的にはどういうことを意味するのか。「冥福」の「冥」は「冥土」の「冥」であり、「福」は「幸福」の「福」である。ということは、あの世でのお幸せをお祈りします、という意味なのか。そうであれば、なぜ私たちは直接「お亡くなりになったお父様(お爺さまでもおばあさまでもなんでも良いが)があの世でしあわせにお暮らしになられることを私は願っています。」とは言わないのか。ところで実際私たちが「ご愁傷様です」「ご冥福をお祈りします」という時に、私たちは本当に「あなたの心が悲しみで傷ついていることは私にもよく分かるように思います」「お亡くなりになったあの方があの世で幸せにお暮らしになられるように天に祈りを捧げています」と思っているのか。死んだ後に「幸せに暮らす」ことはそもそも可能なのか。

ああ、だんだんと頭がおかしくなってきた。

こんなことを言い出すと、人に嫌われるようになる。これが老害化するということなのか。僕らはもちろん知っている。私たちが「ご愁傷様です」「ご冥福をお祈りします」という時、私たちは言葉にできないものを伝える「記号」を交換しているのであり、そこに意味があるかどうかは問題ではない。そこには意味はないが、意味されるものはある。そしてそれが何を意味するかは明らかにされることはないし、できないのである。なにしろそれは「言葉にできない何か」だから、どのようにがんばったとしても、言葉にすることはできない。なぜならば、それを言葉にした瞬間に、それは「言葉にすることのできない何か」ではなくなってしまうから。しかし日本人であるならば、当然に「察する」ことができる。「察しあう記号の交換」それが「日本語」という私たちの言語なのだ。

「赤信号」自体には、意味はない。しかし、「赤信号」を見たら、目の前の道路を横断してはいけない、なぜならば、左から、もしくは右から自動車が相当程度の速度で進行してきて、その場合には私の左側面、または右側面が、当該自動車の前面部分に相当程度の強度で衝突することとなり、その結果、私の腰骨が粉砕されることになるかもしれないし、私の身体は衝突の衝撃がもたらした多大な運動エネルギーによって何分の1秒ほどの時間空中を飛んだのち、アスファルトの路面に叩きつけられた頭蓋骨が破裂して、脳漿を辺りに撒き散らすことになる可能性がある、ということを意味していることを知っているのだ。

カメラがカメラに埋もれるようになってきた。そして、自分でもどのカメラを使いたいのかよくわからなくなってきた。これは問題である。このカメラを使っているときは「あのカメラを持ってくればよかった」と思い、あのカメラを持っていこうとすると「いやいや、あっちのカメラの方が良いのでは・・・」と思うようになる。これは精神衛生上よろしくない。

思い出も、思い入れもあるカメラたちだけど、一人の人間が使えるカメラには限界がある。手は左右一対しかなく、両手でカメラを保持すると、シャッターを押せる指は結局ひとさし指一本しかないのだ。私は田中長徳氏ではないし、赤城耕一氏でもない。

そこで、今、私「断捨離モード」です。

そこでまずは、しばらく戸棚の上で埃を被り、防湿庫の中で眠りこけていた、ペンタックスの一眼レフ(SL)とキャノンのレンジファインダー(7)と50ミリレンズ、そしてミノルタの一眼レフ(X700)に旅立ってもらった。どのカメラを買うかを考えるのも楽しいが、どのカメラを残すかを考えるのも結構楽しい。そしてわずかばかりながら、お小遣いがもらえる。買った時に払ったお金のことを思い出すと少し眩暈がしはじめるが、まあよいではないか。ちょっとそこの居酒屋で、やきとんにホッピーで乾杯だ。

そんな冬の午後も、わるくはない。

「責務という観念は、常に天吾を怯えさせ、尻込みさせた。責務を伴う立場に立たされることを巧妙に避けながら、彼はこれまでの人生を送ってきた。人間関係の複雑さに搦め捕られることなく、規則に縛られることをできるだけ避け、貸し借りのようなものを作らず、一人で自由にもの静かに生きていくこと。それが彼の一貫して求め続けてきたことだ。」
村上春樹. 1Q84BOOK1〈4月-6月〉後編(新潮文庫) (Japanese Edition) (p.185). Kindle 版. 

村上春樹のこの小説、単行本が出版されてまもなく3巻とも買っていたのだが、冒頭の2章を読んだきり、どうも興味が続かずにそのままになっていた。しかし、ふとしたはずみに電子版をダウンロードして読み出して2巻の半分あたりまで来た。なんというか、状況設定は救い難いまでに不愉快なものなのだけど、ストーリーがうまく回り始めると読み続けてしまう、そんな物語だと思った。それに、昨今問題になっている宗教二世のことが一つの主題になっていて、そういう側面においても、今が「読みどき」の本なのかもしれない。

「タマル」が「青豆」に拳銃の使い方を諭す場面では、武器そして死が人に抱かせる恐怖が読んでいるこちらに確実に伝わってくる。

「人が自分の命を絶つというのは、そんなに簡単じゃない。」
村上春樹. 1Q84BOOK2〈7月-9月〉前編(新潮文庫) (Japanese Edition) (p.78). Kindle 版. 

Leica M6 TTL + Elmarit 28mmF2.8 + Kodak Tri-X

高等学校の英語の先生をしていた叔父が、僕が中学校に上がったときに、お祝いだと言って英語の教科書(New Prince)の内容を録音したテープ教材をプレゼントしてくれた。ちょうど、その数ヶ月前に僕は初めてラジカセを買い与えてもらっていたが(ちなみにそれは、母親が質屋で適当に見繕ってきたものだったので、どちらかというと実用向けに作られた、スピーカーが一つしかない愛想のない外観をしたラジカセで、着脱可能な無線マイクが内蔵されていて、ボタンを押すとマイクがぴょんと飛び出して、離れたところからマイクを通してラジカセのスピーカーで音声を出す、という、中学生の私には特に使い道のない機能が備わっている珍妙なものであった)、そのラジカセの再生機能を発揮させるためにテープを何度も聞いているうちに教科書の中身を全部覚えてしまった。
数年後、大学の英語学科に入学し、初めての夏休みに帰省した際に叔父の家を訪れたとき、叔父は突然妙な質問をしてきた。

アメリカ人の家に招かれて、食事をご馳走になったとする。食事が済んだ後、そのお礼を君はどのようにいうか?」

前後の脈絡なくされた突然の問いに半分呆れたことのほか、僕がなんと叔父に答えたかは覚えていない(どちらかというと、突然僕を試すような質問をされたことに少々の反感を感じたような記憶がある)が、叔父は「その食事のどれが、どのように美味かったかを説明するのだ」ということを正解として教えてくれた。

そのときは、「はあ、そうですか」と聞き流して終わった(そして、そんなことを長々と説明しなければならないとしたら、それはずいぶん面倒くさいことだ、できれば外国人の家に招かれてそのようなややこしい場面に陥ることのないようにしたいものだ、とぼんやりと考えていたかもしれない)のだけど、叔父が教えてくれたことには、思いがけず深く広い意味があったのではないか、という気がしている。

アメリカに住んでおられるライカマニアの男性のブログをずっとフォローしていたのだけど、その方が癌で闘病の後、1月9日に亡くなった。奥さんがそのことを知らせるポストをアップロードされていたので、何かお悔やみの言葉をポストすることを考えたときに、気がついた。

僕には「ご愁傷様です」「ご冥福をお祈りします」という便利な「記号」があるけれど、これはアメリカ人である奥さんには伝わらない。結局のところ、僕の思・想を伝えるには、故人が書き継がれてこられたブログの内容のどこが、どのように面白く、有益であったかを具体的に記述するしかないのである。便利な記号ではなく、自分の頭で考えて組み立てた、自分の言葉で。それは面倒くさくてややこしい作業なのだが、結局のところそれしか方法はないのだ。

数年前、同じく癌で他界したあのおじさんが教えてくれた通りだ。

ご冥福をお祈りします。

Rest in piece.

Timothy Vanderweert 1958-2023

 

Leica M4-2 & M3: Paris de Leica, Leica de Paris

日本の食料自給率は30%代だそうだが、我が家のカメラ自給率は2000%ぐらいである。昨日一台処分したけど、明日また一台増えそうな予感が・・・。

Leica M4-2 + Summicron 35mm + Kodak Tri-X

パリ左岸の「Shakespear's Bookstore」。今や完全に観光地と化したセルフィースポットだ。1993年の夏、道に迷って(今はスマホがあるが、少し前まで人は道に迷うことがあったのだ。特に見ず知らずの外国の街では)通りかかった本屋で道を教えてもらおうと思い、店にいたおっちゃんに「ドゥーユースピークイングリッシュ?」と聞いたら、「イエスインディード」と返されのが今から思うとこの本屋さんだったはずだ。その時の記憶では、橋のすぐそばにあった本屋さんだったような気がしているのだけど・・・こんな店だったっけ?

いずれにしても順番待ちの観光客が店の外に長蛇の列を作っているというような光景は、なかったはずだ。

Leica M4-2 + Summicron35mm + Tri-X

これ、確かズミクロンの35ミリだったと思うのだけど、「露出合っててくれ!」と祈るような気持ちで一枚だけシャッタを切ったことを覚えている。おじいさんとワン公。ワン公はちゃんと椅子の上に座らせてもらっているんだ。そして、一丁前に街ゆく人たちを傍観している。パリの人たちは本当に犬が大好きなんだね。

月曜日の朝9時ぐらいだったかな。シテ島にて。通勤途上のマダム。朝の日差しを愉しむように悠々と通り過ぎていった。東京の、例えば品川駅の月曜日朝9時の惨状を想い起こすと、同じ惑星とは思えないですね。

9月下旬の日曜日の午後の突然の土砂降りに見舞われた後、左岸のどこか。どこだったかな。

Leica M3 + Elmarit 90mm + Tri-X

Elmarit 9cmをつけたままのM3で夜の街角をスナップ。ライカといえば、標準から広角系が得意なカメラ、なのだけど、中望遠もなかなかいい。意外と色々なものが撮れる。特にM3はファインダーの倍率が高いから中望遠のレンズと相性がいいのだ・・・これが理由でM3はなかなか手放せないのですよね。。シャッタ切らずに防湿庫にしまっておくと結局調子悪くなってしまうので、2台の維持は難しい、と分かってはいるのだけど。

こんな写真撮ったっtけ?と思うようなカットもあるけど、いずれも4〜5年前の、Covidに襲われる前のパリの様子です。

また、行きたいな。もう、無理かな。

Minolta α7: Aged Positives

ポジフィルムを装填して、36フレームのうち半分ほど露光した後防湿庫の中で眠り続けていたミノルタα7。ふとしたきっかけでカメラを引っ張り出し、残りの半分を撮影して、フィルムを現像してみた。最初の方に撮ったフィルムに写っている人たちのほとんどがマスクをしていないことからすると、これはおそらく2019年の秋に撮影したもののようだ。

ミノルタα7はプラボディのコーティングが経年変化で溶けてしまうのか、表面がベトベトになってしまうのが奇妙な持病である。私のαはカメラ屋さんのお兄さんがアルコールで丁寧にフキフキしてくれたおかげで、つるりとした触感である。正直安っぽい感触だけど・・・しかし今世紀に入ってから製造されたカメラなので、中身(機関)はまだまだ健康だ。

このポジフィルム、カメラの中で過ごした時間の経過で、色バランスが狂ってしまている。で、あるにもかかわらず、なぜか本当の色彩よりもより本当の景色のように見えてしまうのは、一体なぜなのだろう。なんだかヴィンテージ感?があってありがたいような気がしてしまう。

「色転び」はデジタルで画像を撮影して、AdobeLightroomのプリセットを使えば、簡単にシミュレートできる。でも、このポジフィルムの「色転び」は、このフィルムだけが経験した時間、空気、我が家の屋内まで吹き込んでくる潮混じりの風、そのようなさまざまなものが作用して初めてできたものであって、かつ、同じものはできないのだろう。これは「偶然の産物」であって、シミュレートしたものではない。それに、そもそも、このような写真を撮った記憶がない。場所が北鎌倉であること、季節が秋であることはわかるのだけど・・・

ひとまず、時間がもたらした一つの偶然の産物、としか言いようのない映像が、ポジフィルムのうえに定着されていた。

Minolta α7 + Minolta AF Zoom 24-105mm + RDPIII

 

Minolta α-7:S区寸景

Minolta α-7 + Minolta Zoom Lens AF24-105mm + Provia F 100

1973年に西武百貨店ダイアン・アーバスの写真展が開かれていたようだ。その際の写真集は西武百貨店が出版している。山岸章二氏が編集し、堤清二氏が発行した。写真集の中の、当時の基準において不適切な部分は黒マジックで修正がされている。修正するなら発表するなって?

修正してでも発表する方が正しいのかもしれない。もっとも、当該人物を除いて周囲の全て人々の顔にモザイク、ぼかしがかかっている報道番組を見慣れた私たちにとっては、ダイアン・アーバスの作品の一部にインクで修正が施されている、それが何を意味するのか、ということを問う力さえも奪われてしまっているのではないか。

「自由」とは人間にとって耐え難い「重み」に他ならないのかもしれない。

Googleとラジオ。必要な情報を検索して取得する行為と、必要であるか不要であるかはさておき、情報が垂れ流されて、その中で必要な(必要か不要かという基準ではなかった、と思うが)情報を取り入れて、何らかの形で、記憶する行為。効率が良いのは前者であろう。しかし、何を検索したら良いのかを知らないものにとって、ラジオは、非効率かもしれないが、しかし、豊かな潜在的な知識と経験へのリソースであるといえるのではないか。

私が中学校の1年生の三学期の初め頃(具体的には、1979年だ)、日本中の人々の耳目を集める猟奇的な事件が起きた。銀行に籠城した犯人と警察の攻防は、ラジオで私が住んでいた片田舎にもリアルタイムで伝えられた。いつもの番組は全てキャンセルされて、一晩中、現場の状況だけがラジオで伝えられたのだ。数十分ごとに伝えられる現場のニュースとニュースの間の数分間に流されていた音楽を僕はいまでも覚えている。それは、オスカー・ピーターソン、ないし、オイゲン・キケロの演奏だったのだ。

と、いうわけで、私は今1973年に西武百貨店が出版したダイアン・アーバスの写真展を買うべきか否か、逡巡していたわけなのであるが、夜が明けたら私はその写真集を購入に及ぶのであろう。書籍のコンディションからするといささか強気の値段設定であったようにお見受けはするのだが、しかし1973年の空気を吸い込むことができる、という点を考慮するならば、これはまさに破格なのである。

それにしても、庶民のための買い物施設である(あった)百貨店とは、実に文化的ラジオの役割をも果たし、人々においては何を見て、知り、考えれば良いのかという問いが先に立てられることはなく、ただ、目の前に現れる次々のものを目にし、好きなものだけを吸収すれば良い、という時代の空気をもう一度嗅ぐために私はあのお高い黄ばんだ写真集を購入に及ぶのであろう。

知るよりも前に、知るべきことを知っているというのは、あまりにも不可能であり不自然なことなのであるが、しかし、それが今日の私たちにとては、当たり前のこと。ニュー・ノーマルなのである。