このGR1vを中古カメラ店で手に入れたのは、もう7年か、8年前だったはずだ。まだファインダー周りの部品がリコーに残っていた時期で、液晶関係は部品交換させたばかりという状態の良いものだった。ところが、2年ほど前ぐらいからフォーカス位置を表示する液晶が消えてしまい、どこで焦点があっているのかが分かりづらくなってしまい、あまり持ち出さなくなってしまっていた。しかし、シャッター、巻き上げ、巻き戻しの機関は正常であり、今どきまともに写真が撮れる状態で稼働しているGR1を持っているような恵まれた状況にある者は、日本ひろしといえどもそうは多くはいないはずだ。
いや、「状況」というよりは、「めぐり逢わせ」と言ってもよいのかもしれない。
とすれば、このGRの命脈が尽きるまであとどれくらいの時間が残されているのかわからないが、カメラが動かなくなるまで、もっと色々な写真を撮っておくのが、そのオーナーに課された使命であるというべきであろう。
ということで、このところ通勤カバンにトライエックスを装填したGR1vを入れっぱなしにして、昼休みや仕事の行き帰りにポチポチとシャッターを切っている。そしてカメラの中にあった36枚撮りのトライエックスを現像してみたところ、最初の方はおそらく1年以上前のものではないかと思われる写真が出てきた。フォーカスポイントが消失してしまった後に撮ったものだと思うが、どのカットも大きくピントを外してはいない。露出も正確だ。まだそこそこ快適にこのGRで写真を撮ることができそうだ。
あるブログを読んでいて、「delayed gratification」という言葉を学んだ。「満足遅延耐性」という言葉になるようだ。正確なところは是非ググっていただきたいが、僕の理解としては、並ばずにすぐに食べられるラーメン屋で普通のラーメンを食べるのか、それとも20分くらい並んんでも人気ラーメン店に行って客観的評価も高いラーメンを食べるのか、という問題であると心得た。
10年前確か500円もしなかったトライエックスが2,000円ということになり、一時期デジタルへの移行を進めていたのだが、最近またフィルムの方に回帰している。2000年代に生まれた人たちにとっては、「写真」といえば、デジタルカメラやスマートフォンで撮られたものがネイティブなのだと思うが、私の世代にとっては、フィルムがネイティブなのだ。デジタルカメラで撮影した写真にいまひとつ愛着がもてないのは、そんな事情が影響しているのかもしれない。
もうひとつ、フィルムでの撮影に説明し難い魅力というか、楽しさを感じてしまう理由は、シャッターを切ってから、撮影結果を実際に目にすることができるまでの、時間差にあるような気がする。デジタルカメラで撮影すればシャッターを切った瞬間に撮影結果を確認することができ、そのままPCに取り込んで画像を編集したりすることができるのだが、フィルムで撮影すると、シャッターを切った後、しばらくの間私は何もできないのである。36枚撮りのフィルムであれば、最初の1フレームを露光してから、最後の36フレームめ(たまに37フレームめのボーナスが付くことがあるけれど)を露光するまで数ヶ月から、下手すると1年以上かかってしまうこともある。
数ヶ月前、1年前に自分が見た過去の光景をいま、現在的経験として目の前に差し出される不思議な感覚は、よく考えてみると、フィルムカメラという今やobsoleteな道具を使って、フィルムというobsoleteなメディアを使って行う以外に、経験する方法がないような気がする。
こうしてGR1vで撮影した写真見てみると、露出オーバーになっている部分が滲んで掠れているところが僕はとても気に入っている。上の5枚目の写真の猫の頭の後ろの床の上に日差しがあたっているところ。1枚目の窓の外。とくに4枚目の写真の画面左上の部分だ。逆光の日差しが樹木の枝や、手前の電柱の縁にまとわりついているようだ。確かこのカットは、フォーカスに不安があったので、焦点距離をマニュアルで固定して撮影したものだったように思うけど、Pen D2やRollei35で目測能力を鍛えてきたせいか、28ミリレンズの被写界深度が深いこともあって、まあそこそこ鑑賞できる程度には写っているのではないだろうか。
こうしてみると・・・結局カメラに露出任せた方が、いい写真が撮れるような気がする。。2000年代のフィルムカメラの進歩の最終段階で作られた露出、フォーカス全てがオートの自動カメラの実力は、相当高いものがある、と言わなければならないのであろう。