「[われわれの]認識が対象に従うのでなく、むしろ対象の方がわれわれの認識に従わなければならない」(『純粋理性批判』、第二版序論)
石川文康. カント入門 (Japanese Edition) (p.66). Kindle 版.
ずっと以前にアメリカの西海岸のある街で、オリンパスPenシリーズのカメラで撮った写真を、整理しました。フィルムは確か、KodakのUltramax 400を使ったと思います。カメラは、Pen Fに38ミリと100ミリの2本の交換レンズ、そして PenD2を持っていきました。
日々生活していると、それは当然そうだ、そうに違いない、と思い込んでいること、あえて改めて考え直すまでもない、と断定していることって、少なくないと思う。
例えば、「何のかんのといっても、フルサイズセンサーの方が、フォーサーズよりも良い画質の映像が得られる」と、いうことも、私自身が実証、確認、検討したわけではないのだが、しかしそれは当然そうだ、そうに違いない、とはなから断定しているのである。
東に登ったお日様が、西に沈んでいく。日々目の前で反復されるこの自明の出来事に従うと「太陽は地球の周りを回っている」という認識が得られる。しかし、そのように対象に従って得られた認識では星の動きを説明できないことに気がついたコペルニクスが、天体の動きを観察して得られた認識に従って世界を把握したとき、地球が太陽の周りを回っているということが見抜かれる、ということになる。
オリンパスPenシリーズは、D2を最初に入手したのですが、「目測」でピントを合わせる、というところに慣れない、というか、実際にはF5.6くらいまでに絞り込めば、被写界深度が深いこともあり、D2はフォーカスノブもついてて調整できるので、結構シャープにピントがあうのですが、「ピントを合わせました!」という手応えがないので、今一つ撮影の実感がないということで、使いきれていない。EE3もかなり程度の良い個体を見つけて所有しているのですが、これも思いついた時にポチ、ポチと撮る程度で、36枚採りを一本撮り切るのに、2年かかる始末です。
その点、Pen Fは一眼レフなので、ファインダーで合焦を確認できるのがいいところ。ただ、ロータリーシャッターの「バシャっ」という、小さなガタイに似合わない威勢のいいシャッター音が、ストリートで使う時にちょっと気が引けてしまうことになるわけです。
しかし、改めて数年前に撮った写真をこうして見直してみると、普通のカメラと比べて2倍のカットが撮れる、という安心感というか、おトク感に助けられて、目についたものをぱちぱちと撮った結果、まあ、自画自賛ではあるのですが、たぶんライカでは撮らなかったかなというような結構面白い場面が撮れていたりしています。
つまり、ハーフサイズで画像面積が小さくて、安いカメラの方が、フルサイズでお高いカメラで撮るよりも良い写真が撮れることがある、これも一つの「コペルニクス的転回」と言えるのかもしれない、という気がしないでもない、わけです。
カメラを持って、ファインダーを覗くとき、その瞬間に、撮る自分と、撮られる自分以外の世界とに、世界が分割されるように思います。撮る私は、間違いなく、撮られる世界の一部であるのですが、カメラを持ちファインダを覗くことによって、自分を世界の外に置くことができる。自ら望んで、自発的かつ能動的に、世界から自分を疎外することができる。そして、疎外感というか、切り離された自分というか、一種の「浮遊感」の中でシャッターをきっている。
さて、今日も自発的疎外の散歩に出かけるかな。。