しまりす写真館の現像室から

カラーネガフィルムでユルめに写真を撮っています

Leica IIIf: 逍遥、旗の台

「遠近法によって空間の広がりは距離と大きさの比率へと還元され、運動や時間は不動の中心点から視て計算可能な距離の関係として抽象化されます。」

石田英敬 「記号論講義 日常生活批判のためのレッスン 5〈ここ〉についてのレッスン」より ちくま学芸文庫

f:id:Untitledtrueman:20220326203037j:plain

Leica IIIf + Summaron 35mm F3.5 + Fujicolor 100

久しぶりにLeica IIIfを持ち出しました。レンズはSummaron 35mmF3.5。フードをつけて、外付けファインダも載せて、完全フル装備です。機関は、もう3年以上前になるかもしれませんけど、川崎でオーバーホールしてもらったもので、1000分の1秒まできっちりと作動している(使ったことがないが、そのはず)の超ミントコンディション。我が家の防湿庫のトラの子であります。

広角レンズって、何を撮っても「面白そう」に見えるから、フィルムカウンターが進みます。この面白さって、どこから来るのだろうと思うに、まごうことなき遠近法的世界の中の「不動の中心点」にいることを実感させることで、自分がこの世界を支配しているかのような幻想を感じさせてくれるところから来るのではないかと、上に引用した一節を、朝風呂のぬるま湯の中で読んでいて、ふと気がついたという次第です。

f:id:Untitledtrueman:20220326205714j:plain

昨年末以来デジタル化が進めていて、もうフィルムカメラいらないかな〜、なんて考え出してしまったのですけど、こうしてネガフィルムで撮った写真を見ていると、やはりこの雰囲気というかイキフンは、フィルムで撮ったものでないと出てこないような気がしています。

富士フイルムデジタルカメラの「クラシッククローム」モードで撮ればいいだろ?っていうことも言えるんだけど、何なんでしょうね。うつりすぎるような気がするのですよね。

f:id:Untitledtrueman:20220326210326j:plain

などと考えていたら、カントの本に面白いことが書いてありました。曰く、テラッソンという大修道院長が「書物の長さを、それを理解するために必要な時間の長さで計るとすれば、多くの書物について、これほど短くなければ、もっともっと短くなっていたはずといえるはずだ」と言っていた。しかし、そうであるとすれば、自分の著作(「純粋理性批判」)のような書物の場合には、これほど明晰にしようとしなかったなら、もっともっと明晰になっていたはずだ、ということが言えるのではないか、と(「純粋理性批判」 初版の序文より)。

それ、一言でいえば「過ぎたるはおよばざるがごとし」ということがいいのたいのですか?とつっ込みたくなるけど、そこに留まらないというか、もう一段深いところに、彼らのいわんとするところがあるような気がします。

「こうした補助手段は確かに部分的には助けになるが、全体を理解するためには(読者の注意を) 散漫にするものなのである。」

イマヌエル・カント純粋理性批判1」中山元訳 光文社古典新訳文庫

デジタルカメラの画像も「これほど明瞭でなかったならば、もっともっと明瞭になっていたはずだ」といえる、ということなのか?

で、あるとすれば、僕たちは、明瞭でないから、あやふやだから、ユルイ感じだから、という理由でフィルムでの撮影を選択しているのではなく、明瞭さを求めた末に、フィルムという選択肢を見出したのだ、とすれば、物理的・経済的にその選択肢が徐々に取りづらいものになりつつあるというのは、すなわち、世界は「明瞭さへの希望」を放棄した、ということになりはしないか。

f:id:Untitledtrueman:20220326211032j:plain

何をいいたいかというと、とにかくさいきんフィルム高過ぎないですか、ということなのです。先日カラーフィルム10本、モノクロ10本買ったら、2万円越えですよ・・・フィルム買うために、カメラ売らないとならないという、本末転倒、七転八倒の状況になりつつあります。

これがいわゆる「ぴえん」というやつでしょうか。いや、「ぱおん」かな?

f:id:Untitledtrueman:20220327101230j:plain

Fujifilm X-T4 + XF35mmF1.4 + Classic Chrome