しまりす写真館の現像室から

カラーネガフィルムでユルめに写真を撮っています

Fujifilm X-T4:師匠と弟子の問答から学んだこと。

Fujifilm X-T4 + XF90mmF2.0 + Classic Chrome

「・・・しかし、僕がなにを言っているのか、君にもっと明瞭に話してあげよう。君はまだよく理解していない、と思われるから」

すると、ケベスは言いました。「ええ、ゼウスにかけて、あまりよく解りません。」

岩波文庫パイドンプラトン著より)

わからないときは、わからないと言ったほうがよい。そうなのだ。しかし「神様にかけてよくわからない」と言うのは、このケベスという若者、相当誠実な青年とみた。

とはいえ、「わからない」ことを「わからないとわかる」ことは、実はかなり難しいことなのではないか、と思う。

ソクラテスが毒杯をあおってその「魂」がハデスの国へと旅立ってから、2000年、私も含めて、解らないことをわかったような気になって、あるいはわかったふりをして、もしくは、わかったものと仮定して、あるいは無理矢理に解って・・・そう、私たちは解らなくても「わかる」ことができるのだ。例えば、青いブルーシートと段ボールから、帰る家のない人であると言うことをわかり、借金を返せなくなって破綻した人、と言うことがわかり、望んでそんな暮らしに落ちていったわけではない、と言うことがわかり、そのきっかけはほんの些細なことなのであった、と言うことがわかり、寛容性のない社会が孕む問題だということがわかり、人々の「心の闇」がわかり・・・つまり、「連想」ゲームで思いつくこと、それが真実に他ならないと、私たちは信じてしまう。上野発の夜行列車、といえば、終着駅は青森であり、北に向かう人の群れ、といえば、誰もが無口であり、海鳴りだけを聴いている他ないわけであり、私はひとりであり、そして夜行列車を降りたならば、当然に連絡船に乗るわけであって、凍えそうなカモメ見つめ、泣いてしまうのである。そう、上野発の夜行列車という「きっかけ」を与えられれた私たちのぼんやりとした頭脳は「思・考」というものを全く介することなく、動物的な「連想」、ただそれのみによって、オートマティックに、「真実」を見出してしまうのである。野党が発言すれば、それは「反発」であり、北朝鮮から飛翔体が発出されれば、それは「国難」であり、日中の公園でカメラを持ってウロウロしている中年の男がいれば、それは「不審者」に他ならないのであって、そのような決定に、特段の根拠は必要ないのである。必要なのは「連想」それで十分だ、ということで、日々をやり過ごしている、という事情にあるということは、実は少なくないのではないか。

解らないものを、解らないものとして皆の目の前に差し出すこと。「ゼウスにかけて」よく解りません、と認めること。そこから何かが始まるのではないだろうか、という気がしている。

言ってる本人も、実はあまりよく解らない、のだけど。