しまりす写真館の現像室から

カラーネガフィルムでユルめに写真を撮っています

70年代からの《message in a bottle》

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Leica M Type 240 + Summilux 50mm + Adobe LR

ここのところ、「東京」「パリ」そして「Nへの手紙」と、立て続けに巨匠森山大道の最近の写真集を衝動買いしてしまった。いつものごとく、なんでもすぐに影響されてしまう性格の私は、ついつい、自分のRAWデータもLightroomでモノクロ化し、周辺減光最大、粒子も最大、コントラストをアゲアゲにしてしまうのでした。。

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Leica M Type240 + Summilux 50mm + Adobe LR

何かの拍子に、中平卓馬の「なぜ、植物図鑑か」(ちくま学芸文庫)を再読し始めたのですが、いったいなんの拍子だったかな〜。思い出せません。

いずれにしても、これほど緻密な思考の経過を文字にした読み物って、いやもちろんあるでしょうけどしかし何か、尖った刃物で自分の脳幹を削りとりながら書かれているような、そんな読書感触がします。今日風呂でぬるま湯に浸かりながら読んだ部分では、写真(テレビや映画などの映像を含む。)は記録であって記録ではない、ということが書かれていました。

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Leica M Type 240 + Summilux 50mm + Adobe LR

「・・・いやそれよりも前にわれわれは映像によって切りとられた現実を、当の映像はあくまでも現実の似姿であるにすぎないことを忘れて、現実そのものとあまりにも容易に短絡させることによって、現実ではなく現実の似姿を現実そのものと信じ込んでしまっているのではないか。そのことがまず最初に問われなければならないだろう。」(ちくま学芸文庫「なぜ、植物図鑑か」所収「記録という幻影」より)

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Leica M Type 240 + Summilux 50mm + Adobe LR

そして中平氏がその中でくり返し指摘し、執拗に糾弾しようとしているのは、写真(映像)が必ずしも現実そのものではないということを容易に失念してしまう我々のおっちょこちょいさ加減だけなのではなく、そのおっちょこちょいさ加減に乗じて、どの映像をいつどのような形でどのくらいの量を大衆に向けて流通させるかというコントロール権を独占しているマスメディアに結束した「権力」の存在なのである!

「いずれにせよ、ここには支配者側の普遍性を装った巧みな大衆、人民の操作があることだけは間違いはない。」(ちくま学芸文庫「なぜ、植物図鑑か」所収「記録という幻影」より)

うーん、正真正銘の70年代ですね〜。

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Leica M Type240 + Summilux 50mm

少し前に読んだ村上春樹の「羊をめぐる冒険」では、鼠が撮った背中に星印のある羊が映り込んだ写真が物語を展開させる主要なモチーフになっているわけですが、その中で「先生」の秘書が、「僕」が鼠から託された写真を挿絵に使った生命保険会社のPR誌を発見して、その流通を根こそぎ止めるという場面がある。つまり、「支配者側」が、映像の流通を監督、管理する世界が背景として描かれていると言えるのではないか。

村上春樹も、もしかすると、中平卓馬を読んでいたのかな?

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Leica M Type240 + Summilux 50mm

森山大道中平卓馬とくれば、中平氏が主催した同人誌《PROVOKE》で展開された「アレ・ブレ・ボケ」の作品がよく知られているのですが、《PROVOKE》少し前に復刻版が発売されていたのですよね。買っておけばよかったなー。

中平卓馬は1970年から始まった国鉄(当時)の「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンを批判したことでも知られていますが、その「ディスカバー・ジャパン」のキャンペーンポスターの中に被写体を意図的にブラしたものがあったようです。このウェブページの先頭で紹介されているポスターのことかな、と思うのですが。。

artscape.jp

おそらくはこれに関連して以下のように書かれてる。

「ある友人が冗談まじりに、《PROVOKE》もたいしたもんだね、国鉄までブレてるよ、と言ったことがある。冗談ではない、それはむしろ逆の証左なのだ。彼らはあらゆるものを骨抜きにし、しかもその形だけは残すのだ。いやそうではない、それでは事の反面をしか捉えたことにならないだろう。彼らが認めたその瞬間からわれわれ自身が腐蝕しはじめるのだ。」(ちくま学芸文庫「なぜ、植物図鑑か」所収「記録という幻影」より)

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Leica M Type240 + Summilux 50mm

なるほど、例えば、1977年に東独のホーネッカー書記長がデヴィッド・ボウイの「HEROES」を1978年の年次党大会で大音量で流しているところを想像してみたり、あるいは、1972年の年末のホワイトハウスのパーティーニクソンジョン・レノンの「Imagine」を歌ってるところを想像してみたりするとわかるように、ありえない光景であっただろうとわかるけど、では、今日アメリカ大統領の選挙イベントの「締め」にローリング・ストーンズの「無常の世界」が流れるということは、ついに世界のミック・ジャガー化が完遂したということでは、おそらくないのであって・・・中平氏に言わせれば、おそらく、今日においては、ボウイも、ミックもレノンも、みんなみずから腐蝕してしまった、ということになるのか。もしも、僕らが今日耳にしているのが「骨抜きにされて形だけが残った」歌なのだとしたしたら・・・そうではないことをimagineしたい。

冷たいコンクリートの壁で引き裂かれた人々がふたたび一緒になれる日を待つ歌が、あるいは、何万トンという爆弾が降り注ぐ中で戦争のない平和な世界を夢想する歌が、国家行事のテーマソングとして採用されることによって、果たしてその作品が「希求」していたはずの世界がついに具現化し、現実化したものと理解できるのかというと、果たして一体どうなのかと、思ってしまうことがあるわけですが、いずれにしても「支配者側」に認められた瞬間におのれ自身の腐蝕が始まる、といって突き上げられた50年前の中平氏の拳は、今も降ろされることなく、依然として中空にあるのかもしれません。

その拳を見あげている者は、もうだれもいなさそうですが。。

中平卓馬の写真集は、いくつか入手しているのですが、最近よく見返すのはこちら。