しまりす写真館の現像室から

カラーネガフィルムでユルめに写真を撮っています

Rollei 35 SE: 1984年の町中華

Rollei 35 SE + Sonnar 40mm + Fujicolor 100

暑い!

歳のせいか、夏が堪えるようになってきた。箪笥から引っ張り出した半パンで、生白いふやけた脛を晒して出歩ていると、命のキケンすら感じてまいります。皆さまお変わりございませんでしょうか。どうぞご自愛ください。

さて、今回の写真は友人からいただいたローライ35SEで撮りました。

巻き上げて、レンズを沈胴させた状態で皮のケースに収められて長い時間が経過していたようで、スローシャッターが切れず、ファインダーにカビが生えかけていて、外装もねばついていたので、皮張り替えも含めて全体的にオーバーホールをお願いしたのです。

ローライ35SEは1979年に発売されたもので、記念、復刻版ではない通常のシリーズモデルとしては、最後発のものとなる。まさに1980年代のカメラだ。オーバーホールの結果はご覧の通りで、少し赤みが強い感じできれいに写る。晴れた日の屋外にて、絞り込んで撮影する分には、目測でも何にも問題はない。

ところで今日、近所の古本屋の西日に照り付けられている平台かごの中から、この本を連れ帰ってきた。

「'83の感応、話題作。」とある。ということは、まるまるなんと40年前の書籍。でも、今読んでも面白い。というか、今読んでるから面白いのかも。1983年の時点で、この本の中で警鐘を鳴らされ、危惧されていたことが、全て現実化しているような気がしました。1960年代以降の日本社会は能率と生産と拡大を至上価値とする現代型コマーシャリズムに支配されつつあり、そこでは人間と人間生活は生産のための一つの機能として捉えられる一方で、明るさ、喜び、美しさといった正、陽の側面にばかり焦点が当てられ、人間たちは一種の「幸福感過多症」を発症し、負、陰の側面、汚物・異物・全近代的な人間生活が徹底的に排除されていく過程が始まったのが1980年代であるということを、すでに1980年代初頭の時点において見抜いていた、といえるのではないか。

「かくて、私たちのコマーシャル環境にはの欠け落ちた喜楽人間が氾濫する。」

藤原新也「東京漂流」情報センター出版局 昭和58年1月8日 第一刷 370頁)

さて、まさに1980年代のど真ん中、具体的には昭和59年からの数年間、豊島区と北区の境界に住んでいたことがある。路地を歩いていると、あるときは私は北区の人であり、そのまま連続的に豊島区の人になるのだ。学生だった私は、下宿の近所の商店街にあった中華料理屋によく行った。いわゆる「俺たちの聖域、町中華」っていうやつだ。その店の名前がまさに「喜楽」だった。

しかし、その店では、いつも、店主のおじさんと奥さんが必ず夫婦喧嘩をしていたのである。

暖簾をくぐると「らっしゃい!」の続きで「ったくうるせえや、いい加減にしろ!」っと店主が毒づく(多分お客の私ではなく、奥さんに向かって、のはず)といった塩梅で、夫婦でお互いに罵声を浴びせあいながら作ってくれた肉野菜炒め定食を、首をすくめるようにしていただく心境は、決して「喜楽」ではなかったのでした。

そう、そのころのあの街、あの店には、未だ「怒」と「哀」があったのである。

玉袋筋太郎が場を盛り上げてくれて、高田秋さんが愛嬌を振りまいてくれるような、「喜楽」な「俺たちの町中華」ではなかったが、そこには「光」と「影」があり、「極楽」とともに「地獄」があり、「生」と「死」があったのである。私がこれまでに暖簾をくぐった無数の飲食店の中で、あの店だけは決して忘れることがなく、こうして時折、記憶の水面上に浮かび上がってくる、というのは、藤原新也氏のいう「中産階級の健全な社会生活に不適合な汚物、異物、危険物とみなされるものは巧妙に封印され抹殺されていく」消毒され、殺菌され、漂白されきった「コマーシャリズムの世界」にかれこれ40年、どっぷりと浸りきってきたのにも拘らず、私の中において、駆除されきっていない害獣か、ウイルスか、何かのように、過去の遺物が、何ものかの残滓が、私を呼んでいるからなのであろうか。