久しぶりのキャノンニューF-1を抱えて下高井戸の駅で京王線の電車を降りたのが午後1時前くらい。いや暑いのなんの。こんな暑さの中で歩き回っていたら、本当に熱中症で病院に担ぎ込まれそうです。ということで、世田谷線に乗って、とっとと豪徳寺まで移動。
寺の広大な境内の林の木々のお陰なのか、お寺のそばまで来ると、周辺の住宅地にもささやかながら風が吹き渡っていて不思議に暑さも和らぐようだ。境内に人は少ない。これも暑さのせいなのかな。
そのあと松陰神社まで世田谷の谷を歩くつもりでいたのだけれど、まだ命が惜しいので、再び世田谷線に乗って三軒茶屋までワープする。3時前とてまだ空いてる店もなかなかないが、駅の周辺を何度かぐるぐる回った挙げ句に昼からやってるもつ焼き屋を見つけて飛び込んで冷たい生ビールをいただく。
いや、生き返る〜
そのあと国道を渡り、下町の繁華街に移動し、さらにテクテクと、昔ながらの碁盤目状の街並みに沿って広がる飲食店街をジグザグに抜けて行って、とあるジャズ喫茶に入ります。
まだ夕方早い時間、お店は開けたばかりで他にお客さんもいない10席ほどのカウンターの一つに腰を据えまして、まずは瓶ビールを所望いたします。そして、何か食べ物もお願いするのが礼儀というものですから、メニューの最初の方に掲げられておりました「チーズフライ」をお店の方にお願いしたのでした。
お店を開けて間もない時間だったせいか、ビールは程よく常温で、まあこれはなかったことに、ということで急いで飲み干してしまいます。何度かレコードを変えてくださったのですが、上原ひろみとEdmar Castanedaのライブアルバムが気に入ってしまい、かねてからの通信障害にも関わらず、その場でスマホ取り出しAmazonにて検索、CD発注です。CDは2,000円ほどなのですが、レコード盤は5,000円なのですね。
そのうちレコードプレーヤーも買ってみたい。でもうちは猫の毛だらけだから、レコードは無理かな。そんなことを考えながら、角ハイボールをお願いし、これもあっという間に空になったので、1人で対応されているお店の方にあまりお手間を取らせるのも申し訳ないので、白ワインに切り替える。そんなこんなしているうちに、ようやく、という感じで、冒頭に所望のチーズフライがやってくる。
なかなかに熱々なのでしたが、うまい。外側はこんがりと揚がっているが、中はふわりと柔らかい。先ほどより私は黙々と酒を飲み、彼女は黙々とレコードをかける間柄であったお店の方に、愛想がてらに「これ、なんのチーズですか?」と聞いてみる。
そうすると、こう告げられたのだ。
「それ、チーズじゃありません」
「・・・へ?」
もしかして、私の質問が聞こえなかったのかな、と思い、もう一度、聞いてみる。
「いや、これ、なんのチーズですか?」
「いや、それ、チーズじゃありません」
私はその時に気がついたのであった。
私たちがいつも何気なく過ごしているこの世界は、ほんの小さな亀裂が生じることで、容易に瓦解する、そんな脆い、まるでトランプで組み立てた塔のように、儚く曖昧な意味の体系であったのに過ぎないのだ、と。
私は確かに「チーズフライ」を頼んだ。メニューにも「チーズフライ」と不動文字で記載されていた。そして、おそらく今目の前にあり、のみならず、自分の口の中に入れた、この物は、私はチーズであるという前提であり、視覚、嗅覚、味覚といった感覚器官を介し、かつ経験に照合した上で私が得た認識(それは、ささやかながらも「真理」と呼んでもよいはずだ。)も、チーズであるのだが、しかしこうして真っ向から、かつ完全、かつ冷静に「それはチーズではない」と告げられたとき、私の経験主義的認識方法によって得たこの世界の認識は、私の「真理」は、いとも簡単に瓦解してしまったのだ。
これが「チーズ」ではないのだとしたら、私がほんの数十秒前に咀嚼して、喉を降下していき、現在胃袋の中で、胃酸で溶かされつつあるはずのあの「物」は、それでは、一体、「何」だったのだろうか。
他に誰も客のいない、カウンター席10席ほどの薄暗い、しかしやけに冷房の効いた店の中で、私は一瞬にして変貌した見慣れない世界の中に取り残されていた。そして、目の前にある古びた、ほとんど中身の残っていないウィスキーの瓶やグラスの並んだ棚が歪みはじめ、私は少しずつ平衡感覚を無くしていくのだった。私は、カウンターの中にいて帽子とマスクで隠されて表情の見えない私よりもおそらくひとまわりくらいは年上であろう女性の目を覗き込む勇気も持てず、カント的、いやスピノザ的懐疑主義の底知れぬ深みの中にたちすくんでいるのであった。
レコードはいつしか、Jack Wilsonの「Innovations」に変わっていた。そして私の慣れしたんだ世界は、もはやみる影もなく叩き潰されて、ワックスがけされたフローリングの床に横たわっていた。
恐るべし三軒茶屋。東京には我々を容易に飲み込んでしまう世界の裂け目があちこちに潜んでいるのかもしれない。