しまりす写真館の現像室から

カラーネガフィルムでユルめに写真を撮っています

Nikon F: 「夏の闇」再読

Nikon F + Nikkor H Auto 50mmF2.0 + Kodak Tri-X

50年前。まだ小学校に上がるか、上がらないか、そんな頃に2年足らずの間、過ごした小さな海街を訪れました。

地方都市といっても、いろいろだと思いますが、何も観光資源がないということになると、仕事がないから人もいなくなるし、店も無くなるし、電車もバスもタクシーも無くなって、こりゃあ不便っていったら極まりないわけです。

何故この街を訪れたのかというと、一種の法事と言いますか、故人の墓参りという目的であったのですが、墓石洗って、線香あげて、お坊さんにお経あげてもらって、さて、おつとめあけのビールでも・・・ってかんじんの居酒屋がない!

駅前に一軒だけ営業してそうな焼肉屋を見つけたので、砂漠の真ん中でオアシスを見つけた人のように駆け寄ってみると「当面ランチの営業は自粛です」と張り紙が・・・って、もうこうなったら国道沿いで一軒だけ見つけたコンビニで焼酎とスルメでも買って無人駅のベンチで飲むかって、それもなんだか「世捨て人」すぎるんで、結局1時間に一本の電車を待って、何駅か移動して、多少人通りのある市街地まで遠征(?)したんですが、そこで店開けてるのも結局、まんまるとか磯丸とか、これって西新宿のマップカメラの前あたりにもあるでしょっていう安居酒屋チェーンのお店だけなんですよね。

いや日本は狭くなりました、どこまでいってもおんなじコンビニ、おんなじ居酒屋、売ってるものも出してる食べ物もおんなじおんなじの、金太郎飴みたいな国になったような気がする。逆に本物の「金太郎あめ」の方を最近あまり見なくなった気もするけど。

でも、最終的には親戚の男と2人でめちゃ盛り上がって、ウィンナーの串揚げとか腹一杯食べて、角ハイボールがぶがぶ飲んで、帰りの電車に乗りました。

しかし、こうして縁もゆかりもないっていうか、いやあるある、あったんですが、半世紀近くにわたってこっちは振りかえりも見向きもしなかった土地でも、知っている人で現存している人は誰もいなくなったような土地でも、こうして電車を降りて、誰もいない駅前のひび割れだらけになったアスファルトの上に立つと、なにかがずっとここで私が帰ってくるのを待っていたんじゃないか、っていうことを感じるのは、これは気のせい、年のせいなのでしょうか。

こんなちょっとばかし「センチメンタルな旅」に連れていくのは、やっぱりデジタルじゃダメで、フィルムカメラに限ります。

今回、荷物も多いし、ちょうどおろしたてのGR3xをシェイクダウンがてらに持ち出そうと思ってたんですけど、朝、家を出る直前に思い直して、50ミリ付きのニコンFとTri-Xを3本カメラバッグに入れたのでした。レンズは、28ミリもあったほうがいいかなとは思いましたが、「旅にはカメラ一台、レンズは一本がお約束」という渡辺さとる氏の名著「旅するカメラ」の至言を思い出して、やめにしました。

フィルムカメラが旅に良いところは、なんと言っても、「旅をしている間は撮った写真を見ることができない」、という点に尽きると思います。旅をしながらデジタルカメラで撮った写真を確認しだすと、ほんの数秒前に見たもの、知ったことを追認、再確認し、自分の知ってるイメージに合わせようと編集し、気に入ったものだけ保存するという一種の「作業」に変わってしまうのですよね。新しいもの、知らないものの発見とか、出会いに価値があるはずの、「旅」の本来の趣旨が変形してしまうような気がするので、やはり「旅」にはフィルムカメラが合目的的に合致するのである。

「私はベッドに腰をおろしてウォッカをすすりつつ黄色い川に輪がひろがってはきえ、消えてはあらわれるのを眺めた。ずっと見つめているとやがて無数の菌糸が消えて、たった一滴の雨が降っているように見えてくる。」

開高健「夏の闇」(直筆原稿縮刷版 新潮社)より

ウォッカの酔いになぶられながら、セーヌの川面に反射する光のかけらを、ぽうっと眺めている、この主人公と一瞬のあいだ、同体化している感覚。その感覚を求めているのなら、やはり私は、フィルムカメラこそ、そのような旅の伴侶としてふさわしい、とそのように思うのである。